大友義統

大友義統(落合芳幾作)/wikipediaより引用

大友家

大友義統は愚将か凡将か?秀吉に救われた名門大友家を結局滅亡させてしまう経緯とは

慶長10年(1605年)7月19日は、九州の戦国大名だった大友義統(よしむね)の命日です。

九州の大友家と言えば、鎌倉時代から続く超名門。

同じく九州の島津家とは同等の歴史があると言えますが、江戸時代を通じ、大名としての大友家の名前は聞きませんよね。

なぜなら関ヶ原の前に滅亡へ追い込まれてしまったから。

その原因は、この大友義統が「愚将」だったから――と、そんな評価が広がっていますが、果たして義統は本当にダメな武将だったのか?

生涯を振り返ってみましょう。

 


傾き始めた大友家の家督を継承

永禄元年(1558年)、大友義統は大友家当主・大友宗麟の長男として生まれました。

母は大友家臣・奈多鑑基(なだ あきもと)の娘。

凡将として知られる義統ですが、幼少期や青年期にそれを示すようなエピソードは残されていません。

家督継承も特に問題なかったようで、天正4年(1576年)になると、嫡男として第22代・大友家当主となりました。

しかし、彼の前途は決して明るいとは言えません。

九州覇者として君臨していた大友家は、天正元年(1573年)前後から国力に翳りが見え始め、宗麟の躍進を支えてきた重臣も相次いで亡くなっていました。

大友家屈指の勇将と評価される吉弘鑑理が元亀2年(1571年)。

「宗麟の知恵袋」と称された吉岡宗歓が天正元年(1573年)。

これに対し義統がどんな対策を打ったのか、あるいは何も手を打たなかったのか?

と、ツッコミどころを探したくなりますが、そもそも家督継承は形式的なものに過ぎませんでした。

大友家では代々、隠居した前当主と現当主が一定期間は共同で治世を行い、その例に漏れず宗麟と義統の二頭政治が敷かれていたのです。

同様のシステムは伊達家でも導入されていますね。

特に伊達輝宗伊達政宗の代は印象的な最期だったこともあり、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

以下に輝宗の記事を掲載しておきますので、ご興味ある方はどうぞ。

伊達輝宗
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とりあえず大友義統や大友宗麟が愚かだから、という理由で二代による治世が実施されたワケではないことをご理解ください。

彼らにとって最大の問題は“外”にありました。

 


耳川の戦いで惨敗

大友義統が家督継承した当時、九州で最大の勢力を誇っていたのは、紛れもなく鎌倉以来の名門・大友家でした。

しかし、彼らを脅かす勢力が台頭してきます。

薩摩で力を蓄えていた島津氏。

大友氏と同じく鎌倉時代から続く名門であり、島津貴久と息子たち四兄弟の活躍で、天正4年(1576年)までに薩摩・大隅・日向国の三州を統一、さらなる北上の機会をうかがっていました。

「島津の侵攻、これ以上は許さぬ――」

当然ながらその脅威を認識していた義統父子は、島津に敗れて亡命を余儀なくされた日向の有力者・伊東義祐を匿い、領地奪還という名目で日向遠征を決行します。

いくら重臣が立て続けに亡くなっていても、依然として強大な軍事力と将兵を有する大友氏。

義統と宗麟は意気揚々と日向へ向かったことでしょう。

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なんせ大友軍は約5万といわれる大軍であり、高城に籠る島津軍の包囲に取り掛かった大友軍は、これを阻止するために動こうとする島津家久の救援軍を撃破。

優勢な形で戦を進めていました。

しかし、だからこそ弛緩してしまったのでしょう。

高城を攻めあぐねているうちに、島津軍のお家芸【釣り野伏】によって文字通り釣りだされ、大友軍は【耳川の戦い】にて歴史的敗北を喫してしまうのです。

詳細は以下の記事に譲りますが、

耳川の戦い
耳川の戦いで島津軍が九州覇者へ「釣り野伏せ」で大友軍を完膚なきまで叩き潰す

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大友軍の被害は凄まじいもので、一説に戦死者は三千余りに達したとも。

田北鎮周・佐伯宗天といった家老や中心的な武将の多くを失い、その後の大友家衰退を決定的なものとしてしまいます。

歴史に残るほどの大敗ともなれば、影響は家中だけにとどまりません。

家臣らの反逆が続いて国力が疲弊し、島津氏だけでなく龍造寺氏といった勢力拡大を許してしまうのです。

そもそも【耳川の戦い】直前、キリシタンとなった大友宗麟がキリスト教への傾倒を強めるあまり、息子の義統と確執が生じていたことからして緊張感の無さが見て取れます。

亡くなった重臣の穴を埋めるどころか、親子喧嘩してる場合じゃねーだろ! だから負けんだよ……。

とは後世の我々が思うだけでなく、当時の大友家臣や周囲の国衆も感じたはずでしょう。

ですので、耳川の戦いがあろうとなかろうと、いずれ大友家は衰退する運命だったのではありませんか?

一説によると、耳川の戦い直前ですら重臣クラスの意見がまとまらなかったとされます。

意思統一が共有なされないまま戦本番を迎えたらどうなるか――結果は火を見るよりも明らかであり、実際、惨敗となったのです。

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