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【大友義統】
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家中の反乱が続発!
耳川での敗北が周辺諸国にも伝わると、反大友勢力は一気に勢いづきます。
龍造寺隆信や毛利輝元の介入により、有力家臣だった田原宗亀・秋月種実らが敵対。
離反者たちの間でも、さらなる分裂が生じてアチコチで戦闘が実施され、まさに収拾がつかない状況へと陥ってしまうのです。
大友義統は、龍造寺と組み筑後で暴れまわる秋月種実を打倒するため、自ら出陣を決意します。
しかし、種実と内応していた田原親貫も挙兵し、まずは親貫を攻めなければならなくなりました。
さらには、耳川以後、宗麟を強く非難していた田北紹鉄も蜂起し、気がつけば絶体絶命のピンチに追い込まれてしまった義統。
田北紹鉄勢については、ひと月足らずでどうにか鎮圧できましたが、大友家臣らは現当主・義統を一切評価せず、このような提言をします。
「宗麟が復帰しなければ、親貫討伐戦に協力できない」
義統にとっては屈辱的な話でしょう。
愚将という評価は誇張でもないようで、宣教師のルイス・フロイスも義統のことを手厳しく非難しています。
「凡庸である」
「人の助言なしには何も成し遂げられない」
他にも「態度に一貫性がない」とか「危機に直面したとき動揺を隠せない」など、大将の器でないメンタル面も指摘されています。
一方、現場に復帰せよと催促された大友宗麟も微妙な心境だったでしょう。
引退後は体調を崩していただけでなく、対立していた息子をなぜ助けなければならない?と疑問を感じてもおかしくない。
それでも「あくまで義統を補佐する立場」という条件のもとで現場に復帰すると、家臣たちの心は結束します。
勢いに乗った大友軍はたちまち親貫の拠点を落として反乱鎮圧に成功するのです。
その後、宗麟と義統は家臣の反乱に加担した宇佐宮・彦山といった神社仏閣を焼き討ちにし、反乱勢力の弱体化を目論みました。
天正8年(1580年)には、龍造寺隆信の脅威に対処したい島津氏と、内乱の鎮圧を最優先としたい大友氏の間で、和議の話が持ち上がりました。
和睦そのものは不成立に終わりますが、両者はいったん中立の関係となり、大友家は国内統治に専念できるようになったのです。
こうして宗麟の復帰後は勢力を回復させつつあった大友家。
内乱の鎮圧に集中していたため、徐々にその支配地は島津氏や龍造寺氏に領有されるようになってゆきます。
島津と龍造寺が争っている間はよい。
しかし、どちらかが倒れたり、あるいは両者が手を組み、大友へ攻めかかったら?
そんな危険すぎるバランスのもと大友家は生き永らえていましたが、天正12年(1582年)に龍造寺隆信が【沖田畷の戦い】で戦死すると、九州の勢力図がまたもや大きく動き始めます。
四面楚歌だった大友の前に天下人
龍造寺隆信の戦死を知った大友軍は、ここぞとばかりに彼らの支配地・筑後へ攻め込みました。
かつて大友軍が【耳川の戦い】で大敗した後、龍造寺軍に攻め込まれた記憶も新しいところ。
義統と宗麟は「倍返しだ!」と言わんばかりに、立花道雪・高橋紹運らを中心にした面々で攻め込んでいきます。
しかし、この進軍によって、島津との関係が再び悪化。
種実の仲介で島津義久と龍造寺政家の間が取り持たれると、残された大友家は島津・龍造寺・秋月、さらには毛利勢に包囲され、彼らの侵攻に遭うのは時間の問題となってしまいます。
しかも、です。
大友家にとって望ましくない出来事が二つ、立て続けに発生します。
一つは、義統・宗麟を見限って島津に内通する家臣らが現れ始めたこと。
もう一つは、家中の大黒柱として君臨していた立花道雪が病死したこと。
鬼道雪と呼ばれ大友家を躍進させた立花道雪は何が凄い?勇将の下に弱卒無し!
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事ここに至り、鎌倉以来の名門・大友家も、ついに滅亡の危機に直面。
孤立無援の状態で、もはや打つ手はなし……という局面で、大友にとってこれ以上ない助っ人が登場します。
天下人・豊臣秀吉です。
天正13年(1585年)に四国を平定したことで九州への進出を目論んでいた豊臣秀吉。
大友義統と毛利輝元の和睦を斡旋すると、大友と島津の間では停戦を命じた上、従わない場合は武力行使も辞さないと宣言します。
大友家にしてみれば願ってもない最大の援軍です。
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