毛利輝元

毛利輝元/wikipediaより引用

毛利家

毛利輝元は関ヶ原の西軍総大将~なのになぜ敗戦後も家の存続を許されたのか

あの毛利元就の嫡孫である。

豊臣政権においては五大老の一人でもある。

しかし、人物像がよくわからない――。

存在感がイマイチな武将、それが毛利輝元ではないでしょうか。

大河ドラマ『どうする家康』では吹越満さんが演じ、やはり劇中で際立ったシーンはなく、一方、史実においても関ヶ原の戦いで西軍総大将でありながら、結局、毛利家は江戸期を通じて家を残される不可解な展開を迎えています。

一体このとき何が起こっていたのか?

家康と毛利の関係はどのようなものだったのか?

寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日――本稿で、その生涯を振り返ってみましょう。

毛利輝元/wikipediaより引用

 


西の大国・毛利は大江広元の子孫

毛利輝元を輩出した毛利家で、まず注目したいのは、なんといってもそのルーツでしょう。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で栗原英雄さんが演じた大江広元から続いた名門であり、一族には「徳川家康なんかよりもはるかに家格は上」という誇りがある。

ではなぜ「大江」ではなく「毛利」なのか?

というと広元の四男・季光が毛利荘を領有したからでした。

毛利季光は宝治元年(1247年)に決断が迫まられます。執権の北条氏と三浦氏が対立して【宝治合戦】に発展し、季光は、北条氏に付くため執権のもとへ向かおうとしました。

と、そこで三浦氏の出である妻が袖をひしと掴み、こう夫に迫ります。

「それが武士のすることなの?」

嗚呼、そうだった! 俺は武士だ!

そう発奮した季光は三浦方に馳せ参じ、一族もろとも自刃となったのです。

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季光の行動を愚かだとして笑ったりできないでしょう。

父・大江広元の代までは【文士】だったのに、子の代では筋金入りの武士となっていた。

全滅したかに思えた毛利季光の一族は、四男・毛利経光が生き延びていました。

そして、流れ流れて安芸国へ。

神奈川から広島まで途方もない距離ですが、こうしたルーツは、後の毛利氏を考えるうえでもかなり重要な要素です。

江戸時代、長州藩士たちは鎌倉にある大江広元の墓をこまめに掃除していたとか。

大江広元にとって真のルーツは鎌倉ではなく京都にあり、朝廷に近い。これが幕末に至るまで残り、長州藩の尊王の気風と結びつく……と脱線が長くなってしまいましたので、話を戦国時代に戻しましょう。

戦国時代に中国地方の覇者だった毛利氏。

西国政権構想の持ち主である豊臣秀吉にとって、彼らは重要な勢力でした。

天下統一後、明を攻める際には先陣を任せたいし、国力に目を向ければ銀山も豊か。

秀吉の時代から、こうして支持を得て、政権中枢部に取り込まれてきました。

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毛利元就の嫡孫・幸鶴丸、幼くして家を継ぐ

戦国大名として、西国の覇権を握ったのは毛利輝元の祖父にあたる毛利元就です。

様々な計略と外交、そして合戦を重ね、西に睨みを利かせる大大名として知られます。

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その嫡孫である毛利輝元こと幸鶴丸は、天文22年(1553年)1月22日、吉田郡山城に生まれました。

家康の10歳下にあたり、父は毛利隆元

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母は母は内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女にあたる尾崎局です。

しかし永禄6年(1563年)8月、父の隆元が急死してしまい、幸鶴丸はわずか11歳で当主に。

乱世の中で幼少の主君が可能だったのは、祖父の元就はじめ、叔父の吉川元春小早川隆景が支えたからでしょう。

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2年後の永禄8年(1565年)、13歳で元服すると、足利義輝の偏諱により「輝」元と名乗ることとなりました。

そして元亀2年(1571年)6月に元就が死去すると、二元政治は終わり、輝元一人の親政となります。

叔父の支えを受けながら、激動の時代を生きることとなった輝元。

代替わり当初は、元就以来の敵対勢力と争いが勃発します。

尼子氏やその残党、大内輝弘の乱など、数多の戦闘を制しながら、領国経営に努めていると、東から強大な敵がやってきました。

織田信長です。

 


毛利に逃げ込む義昭、迫る織田

織田信長の助力によって上洛しながら、徐々に対立し、ついには決裂した足利義昭

室町幕府の第15代将軍である義昭は、信長に逆襲すべく【信長包囲網】を形成しました。

結果は惜敗といったところでしょうか。天正元年(元亀4年・1573年)、義昭は京都を追放され、事実上、室町幕府は滅びます。

ただし、当時の人々がそう認識していたかどうかは別の話。

幕府の再興を掲げた義昭は、天正2年(1574年)、毛利の領地である備後国鞆(とも)にたどり着きます。ここに亡命政権の【鞆幕府】を築くのです。

さて、輝元はどうすべきか?

尾張から近畿エリアへ――破竹の勢いで勢力を拡大する織田家と対立するのに迷いはありながら、義昭の受け入れを決め、以降は打倒信長を掲げます。

信長にはまだ敵が多く、盤石とはいえない状況。

それでも立ちはだかる諸勢力を打破しながら、織田家が毛利攻めへと舵を切ったのは、天正5年(1577年)秋のことです。

信長のもと目覚ましい出世を遂げる羽柴秀吉がやってきました。

秀吉は巧みでした。

尼子家の再興を誓う尼子勝久と山中鹿之介幸盛を支援し、毛利家への敵愾心を利用したことがその一例。

最終的にこの主従は毛利に敗北しますが、秀吉の智謀はますます冴え渡り、一方で毛利はジリジリと追い詰められる状況です。

秀吉の物量戦により、三木城(1578年)や鳥取城(1581年)で起きた惨劇もまた後世によく知られるところでしょう。

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そうして迎えた天正10年(1582年)6月、備中高松城を攻めていた秀吉が突如として講和を持ちかけてきて、毛利領土から瞬く間に撤退してゆきました。

秀吉は後にこのことを誇張しつつ、あたかも「毛利を救ってやった」かのような語り口をしています。

しかし毛利からすれば、ともかく秀吉が和睦したいから受け入れたという話になります。

気になるのは、毛利がいつどのタイミングで真相――つまり織田信長の死を確実に掴み、その後の動きを決定したのか?という点でしょう。

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