東日本における戦国大名の研究は、どの大名が最も進んでいるか?
そんなもん上杉謙信や伊達政宗あたりでしょ――と思われるかもしれませんが、こと「戦国大名としての国経営」となると、関東の後北条氏が最も盛んという見方があります。
小田原征伐で同氏が滅亡した後に徳川家康が江戸へ入り、同エリアを所領化したときに、後北条氏が持っていた地域データを保全したから、というのがその理由。
江戸時代を通じ、当時の生々しい史料が現代まで状態よく残されていて、そこから様々な内容が確認できるんですね。
例えば『合戦のときに米(兵糧)はどの城へいくら運べ』といった細かい記録なども含まれます。
ただし、いざ合戦中の様子などについては、残念ながら記録が少ないのは後北条氏でも同じ。
槍、馬、弓、鉄砲の各部隊・各兵士たちが「実際にどんな風に戦ったのか?」というのは戦国時代の全体を見渡しても意外にわかっておりません。
ましてやそれが「奇襲」ともなれば、敵をひたすら混乱させるために戦うワケですから、詳細な様子は描かれにくいのですが、それでも後北条氏を語るときに絶対に欠かせない合戦というものがあります。
北条早雲(伊勢宗瑞)を含めて同家3代目となる北条氏康が、数倍もの大兵力を相手にドデカイ奇襲をかまし、その実力を日本中に知らしめた一戦。
【桶狭間の戦い】や【川中島の戦い】並に劇的な合戦だったのに、なぜか世間的な注目度の低い戦いであります。
なぜあまり知られてないのか?
その理由を考えると、この合戦がとにかくややこしかったからかもしれません。
天文15年(1546年)4月20日に起きた日本3大奇襲の一つ・河越城の戦い(河越夜戦)について見てみましょう。
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関東戦国時代の合従連衡だった
河越夜戦とは?
簡単に言うと「後北条氏を皆でぶっ潰そうね!」という戦いです。
長年敵対していた関東の複数大名家が連合を組み、城を囲んでいたところ、ものの見事に返り討ちにあった――という何とも情けない話であります。
まぁ、情けないというか北条氏康が凄かったんですけどね。
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まずは背景をざっくり見ていきましょう。
当時、戦乱期真っ只中の関東地方は、群雄割拠としか言いようのない地域でした。
【立河原の戦い】でも触れましたように、
一つの国を二つ三つ・あるいはそれ以上の大名が取り合ってるなんて状態がデフォルト。
さらに東北や甲信越からよその家がつっつきに来るなんてことが当たり前だったのです。
理由はいろいろありますが、他の地域と比べて起伏が少ない地形であることや、雪で行軍が妨げられることがあまりなかったのが大きいのでしょう。
普通こういうときって地域ごとに”名門”とされる家があって、そこに擦り寄ったり敵対して大まかな勢力図ができていきます。
関東の場合、その名門武家の中でデカイにも程がある亀裂が入っていたので、どうしようもありません。
上杉氏と各所の公方(足利一門)のことです。
上杉氏内では山内家と扇谷家で40年以上(!)派手なケンカをしていました。
公方のほうも勝手に名乗ったりお家騒動を起こしたり、この両者が絡んで余計ややこしくなったり、「どこが名門なのよ……」とでもツッコミたくなるような有様です。
さらに小田原方面では北条早雲の後北条氏が興り、その他、佐竹氏・結城氏・里見氏など鎌倉以来のこれまた由緒正しい家がたくさんあって、当然どこも生き残りをかけて必死。
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戦乱期の関東地方はとにかく複雑でした。
信玄・謙信に並ぶ名将だった
こうした緊張の空気の中、後北条氏の二代目・北条氏綱が亡くなります。
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後を継いだのは、まだ若い三代目の北条氏康でした。
となると、周囲の大名が「早雲と氏綱にはさんざんヤな思いさせられたけど、あの若造なら叩き潰せるでしょ」と考えるのは自然な流れ。
狙われる方はたまったもんじゃないですが、弱肉強食の世界ですから仕方ない。
そして後北条氏の要衝・河越城(現・埼玉県川越市)を上杉氏の二家+古河公方家の軍が取り囲みました。
当初、河越城にいた後北条軍は3,000ほど。
対して包囲側は8万超の大軍団ともされます。
ロクに戦わなくても、すっぽり取り囲んで兵糧攻めを仕掛ければ絶対に負けないはずの戦でした。
将だけでなく兵士たちにも余裕があったでしょう。
しかし、彼らの目論みはあっさり外れます。
後北条氏の三代目こそ、同家の最盛期を築いた北条氏康だったのです。
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