絵・小久ヒロ

今川家

武田軍の駿河侵攻は「薩埵峠の戦い」から始まった!そのとき今川軍は……

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
薩埵峠の戦い
をクリックお願いします。

 

気がつけば薩埵峠に武田軍

信玄が甲府を出たのが12月6日のこと。

そして12日には、駿河・庵原郡(現在の静岡県富士宮市あたり)まで来たというのですから、武田軍のハッスル具合が窺えます。

今なら電車で数時間の距離ですが、当時はもっと道も悪かったでしょうし、一人二人の旅行じゃなくて当主率いる軍勢ですからそれなりの人数がいたはず。

武田軍の統率の素晴らしさも見てとれますね。

しかし、今川氏真としては( ゚д゚)ポカーン

同盟を組んでいたはずの相手が急に攻め込んできた上、もう目と鼻の先にいるというのですからどうにもなりません。

薩埵峠から描かれた 歌川広重「東海道五十三次・由比」/wikipediaより引用

それでも武士の意地でしょうか。

薩埵峠で迎え撃てと部下に命じます。

一方で、もう一つの同盟相手で嫁の実家である北条氏康北条氏政らにも援軍を要請。

北条氏康
北条氏康が関東制覇へ!謙信や信玄と渡りあった57年の生涯【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏政
北条氏政はなぜ最期まで秀吉に反抗した?その生涯53年【戦国北条五代記】

続きを見る

自らも出陣するなど行動を起こしました。

きちんと総大将としての覚悟はあったワケです。

 

先陣を命じた部下にいきなり裏切られ

氏真が偉いのは、すぐ背後といっていいくらいの清見寺というところまで自分も行っていること。

ここは義元の軍師だった太原雪斎(たいげんせっさい)が住職を務めていたお寺でした。

太原雪斎
戦国時代No.1の参謀僧侶は太原雪斎か? 今川家を支えた黒衣の宰相

続きを見る

雪斎は桶狭間の前に亡くなっていますから、その弟子あたりと戦略を練ろうとしていたのかもしれません。

しかし、さすがに信玄のほうが一枚も二枚も上でした。

既に今川家の重臣にまで「氏真を見限ってこっちにつけば、悪くはしないよん」と調略をしかけ、裏切るよう根回しをしていたのです。

そして運の悪いことに、氏真から迎撃を命じられた武将がその一人でした。

出陣はしたものの、あっという間に陣を畳んで引き上げてしまうのです。

こうなると他の武将たちも「どうせ氏真じゃ信玄に勝てっこないし、もう止めるか」と考えてしまい、戦う前に解散してしまう始末。

富士川の戦い】のごとくあっという間に戦は終わってしまうのでした。

富士川には、将兵のやる気を挫く妖怪でもいるんですかね。

味方の不甲斐ない顛末を聞いた受けた氏真は、愕然としつつも急いで駿府へ戻ります。

そして……続きは別記事の【今川館の戦い】に詳細がございます。

恐れ入りますがそちらをご覧ください。

あわせて読みたい関連記事

今川義元
今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれた実力とは?42年の生き様を見よ!

続きを見る

今川氏真は愚将か名将か~敵だった家康や信長と友好的に振る舞えるのはなぜ?

続きを見る

桶狭間の戦いで信長が勝てたのは必然か『信長公記』にはどう書かれた?

続きを見る

寿桂尼
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった!

続きを見る

武田信玄
武田信玄 史実の人物像に迫る!父を追放し三方ヶ原後に没した53年の生涯

続きを見る

徳川家康
徳川家康 史実の人物像に迫る!生誕から大坂の陣まで75年の生涯 年表付

続きを見る

北条氏康
北条氏康が関東制覇へ!謙信や信玄と渡りあった57年の生涯【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏政
北条氏政はなぜ最期まで秀吉に反抗した?その生涯53年【戦国北条五代記】

続きを見る

太原雪斎
戦国時代No.1の参謀僧侶は太原雪斎か? 今川家を支えた黒衣の宰相

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon

TOPページへ

 



-今川家