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【薩埵峠の戦い】
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気がつけば薩埵峠に武田軍
信玄が甲府を出たのが永禄11年(1568年)12月6日のこと。
この日、甲府の躑躅ヶ崎館を出発した武田軍は、そのまま南下し、12日には、内房(うつぶさ・静岡県富士郡芝川町内房)まで来て布陣しました。
現代の道路で約80kmの距離です。だいたい一日15kmほど進んだ計算でしょうか。
山がちな道を進む上に、当時の道路事情を考えると、かなりの速度で進んだことがうかがえます(ちなみに秀吉の中国大返しは一日30kmという恐ろしい速度で行軍)。
一方、今川氏真も重臣の庵原安房守に15,000程の兵をもたせて、薩埵峠に向かわせました。
甲斐から駿河へ攻め込むなら、薩埵峠付近を必ず通る――そこで防ぐのだ。
そんな決意をする一方で、同時に小倉資久や岡部直規も出陣させ、さらには同盟相手で嫁の実家である北条氏康・北条氏政らにも援軍を要請しました。
加えて、自らも出陣するなど行動を起こし、きちんと総大将としての覚悟はあったワケです。
先陣を命じた部下にいきなり裏切られ
氏真からやる気を感じるのは、すぐ背後に近い清見寺というところまで自分も行っていることでしょう。
ここは義元の軍師だった太原雪斎(たいげんせっさい)が住職を務めていたお寺でした。
雪斎は桶狭間の前に亡くなっていますから、その弟子あたりと戦略を練ろうとしていたのかもしれません。
しかし、さすがに信玄のほうが一枚も二枚も上でした。
既に今川家の重臣にまで「氏真を見限ってこっちにつけば、悪くはしないよ」と調略をしかけており、裏切るよう根回しをしていたのです。
そして運の悪いことに、氏真から迎撃を命じられた武将がその一人でした。
出陣はしたものの、あっという間に陣を畳んで引き上げてしまうのです。
こうなると他の武将たちも「どうせ氏真じゃ信玄に勝てっこないし、もう止めるか」と考えてしまい、戦う前に解散してしまう始末。
源平【富士川の戦い】のごとく、あっという間に戦は終わってしまうのでした。
富士川には、将兵のやる気を挫く妖怪でもいるんですかね。
富士川の戦いで水鳥は飛び立っていない?現実は武田信義軍vs平維盛軍だった?
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味方の不甲斐ない顛末を聞いた受けた氏真は、愕然としつつも急いで駿府へ戻ります。
そして……続きは別記事の【今川館の戦い】に詳細がございます。
恐れ入りますがそちらをご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)