宮本武蔵

剣豪・忍者

宮本武蔵の六十余戦無敗ってどこまでガチ? 62年の生涯で水墨画家も

正保二年(1645年)5月19日は、剣豪として名高い宮本武蔵が亡くなった日です。

本名は「玄信(はるのぶ・げんしん)」で、本稿では通例に従って「武蔵」で統一。

有名な逸話が多い人ですので、本日はちょっと視点を変えて、彼の生涯を追ってみましょう。

武蔵のことは本人の著書『五輪書』を元に創作されている点が多いのですが、生い立ちについてはサッパリ手がかりがありません。

ただし、武蔵が長じた後の行動から、逆行して生い立ちを探ることはできそうな気がするのです。

では、本題へ移りましょう。

 

生まれた年を知ってることから身分の高さが窺える

武蔵の生年は天正12年(1584年)。

父は新免夢二斎といい、竹山城主・新免伊賀守に仕えた武将でした。

別の説では、播磨の赤松氏に連なる一族・新免家に生まれ、新免無二斎のもとに養子で入ったともあります。

そんな武蔵が五輪書を書き始めたのは……これが一気に飛びまして寛永二十年(1643年)のこと。

その冒頭でいきなり「年積もりて六十」と記しています。天正十二年(1584年)生まれというのはそこからわかるんですね(数え年なので一年ずれる)。

では、天正十二年はどんな年だったか?

と言いますと【本能寺の変】からまだ二年後ですから、豊臣秀吉徳川家康(&織田信雄)が【小牧・長久手の戦い】で争った年でもあり、戦国時代が収束に向かいつつあった頃です。

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当時はまだまだ混乱が続いていた頃。

それでも武蔵が本人の年齢を知っているということは、誰かに「お前は何年(ごろ)の生まれだよ」と言われたことがあったのでしょう。

戦国時代は大名の子女ですら、生年がわからないということはザラにあります。

それを考え合わせると、武蔵はそこそこいい家や立場で生まれたのではないでしょうか。

 

吉岡、宝蔵院流、柳生流

『五輪書』によると、武蔵は13歳までに剣術を修め、その後29歳まで60回以上の決闘に勝利したとされます。

初めて斬り合いをしたのも13歳のとき。

相手は有馬喜兵衛という新当流の使い手で、武蔵の一刀で決着は付きました。

それからは漫画『バガボンド』をなぞるように

・吉岡清十郎
・吉岡伝七郎
・吉岡又七郎

を倒し、続いて

・宝蔵院流の槍

にも勝利。

・宍戸某の鎖鎌
・夢双権之助
・柳生流の大瀬戸辻風

辺りとも戦いました。

時系列順でいくと、この「60回の勝利」に入るか入らないか……という時期に、あの【巌流島の決闘】が行われたようです。

 

巌流島

巌流島は正式名称を舟島といい、当時は船の難所として知られていました。

秀吉が船でここを通るとき座礁したところ、毛利家に助けられたという逸話があるくらいですから、相当のものだったでしょう(おそらく、毛利元就の孫である毛利秀元が、秀吉に気に入られた時のことだと思われます)。

そんなところでわざわざ決闘をするあたり、物好きというかなんというか……。

小次郎との対決にあたって武蔵は「わざと遅刻してイライラさせて勝利した」というエピソードが有名ですが、実際にはそんなことはなかったという説が最近では出ていますね。

武蔵の養子である宮本伊織が建立した顕彰碑【小倉碑文】に同時刻に立っていたことが記されているのです。

ただし、そこには「佐々木小次郎」の名もなく、チョットややこしいことになっており、詳しくは以下の記事をご覧ください。

巌流島の戦いでの遅刻も「たけぞう」の名も吉川英治が広めた話なり

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次に武蔵の動きがハッキリするのは、大坂の陣です。

戦国随一の暴れん坊・水野勝成――その息子である水野勝俊の配下となって活躍しました。

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その後、水野家の家臣から武蔵の養子になった人もいるので、家全体と親密な付き合いがあったようです。

これにしたって、剣の腕だけでいきなり大名の跡継ぎにつけられる……というのは、ちょっと考えにくいですよね。

まあ、勝成の気性からすると「お前強いから気に入ったわ」というのもありえますけれども。

ちなみに勝俊はものすごくいい人なんですが、父親も部下もこんな感じでインパクトが強すぎるため、影が薄くなってしまっています。カワイソス(´・ω・`)

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