こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【石川五右衛門】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
死刑は免れない五右衛門の重ねた罪
何はともあれ、五右衛門が捕縛→処刑されたのは事実。
逮捕したのは五奉行の一人・前田玄以ですが、漫画『センゴク』でお馴染み・仙石秀久が捕らえたという伝説もあります。
いずれにせよ「たったそれだけで死刑か?」という気がしなくもないですよね。
実は五右衛門には前科があり、それまでに窃盗や殺人を繰り返していたとされ、処刑も仕方のない話でした。
今で言えば、
・連続殺人
・不法侵入
・窃盗
・強盗
あたりですかね。
現代の刑法ですと、死刑になるのは【放火・連続殺人・強盗殺人】など特定の犯罪と【永山基準】ですから、おそらくどの時代の法律でも極刑は避けられないと思われます。
ただし、このときは母親や一味の人間も道連れに遭っていて、合計20人ほどが処刑されたと言います。
場所は、イヤな意味でお馴染みの京都・三条河原でした。
処刑の有様は詳しく描写すると具合が悪くなってしまわれる方もいそうなので割愛しますね。
歌川国貞作の絵がよく知られているかもしれません。
辞世の句は?
ラストに、辞世の句と伝えられている歌に注目してみましょう。
「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」
これは古今和歌集にあるの本歌取り(パロディみたいなもの)と言われています。
オリジナルは以下の句です。
「わが恋は よむとも尽きじ 荒磯海の 浜の真砂は よみ尽くすとも」
恋歌をもじって辞世の句にするとは、なかなか皮肉が効いて……じゃない、教養がうかがえますね。
本当に五右衛門が詠んだのかどうか。確かめられないのが残念ですね。
仮に、五右衛門作だったとしても、さすがに釜に入れられてから歌を詠む余裕はなかったでしょうから、判決が下って処刑までの間に、誰かに言い残したかあるいは書き付けが見つかったか。
その場合は「大名家の元家臣」説が信憑性を帯びてきますが、はてさて。
秀吉も耄碌していた頃だっただけに……
ついでに、こんな処刑方法になったのは当時の豊臣秀吉が耄碌まっしぐらだったと目されていることも少し関係しているようです。
年号から何となく予測がついた方もいるかもしれませんが、誰も得しない【文禄の役】最中のことでした。
このときはまだ、一応日本側が勝ってました。
喜ぶのは一部の武家だけで、庶民としては「日本が平和になったのに、なぜ太閤様はわざわざ海を渡って戦をするんやろ。アホちゃうか」と思っていたことは想像に難くありません。
戦となれば、当然、働き盛りの男達は兵として駆り出されてしまい、治安が悪くなるのも自然の流れ。
五右衛門が繰り返した窃盗その他は、この状況を嘲笑うかのようでもありました。
そのため秀吉は、斬首でもその他の極刑でもなく、釜茹でを選んだのではないかということです。
それにしたって残酷過ぎて、噂が広まれば支持率の低下は免れないでしょう。
秀吉の暴走ストッパーだった弟の豊臣秀長はすでに他界していたので、誰も止められなかったんでしょうか。
あわせて読みたい関連記事
江戸の怪盗・鼠小僧次郎吉は義賊なのかコソ泥か? 盗んだ総額は三千両に達す
続きを見る
志能備(忍)の誕生~伊賀と甲賀の忍者はいかにして誕生し 消えていったのか?
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
美濃の戦国武将・仙石秀久が秀吉の下で大出世と大失態!センゴク64年の生涯
続きを見る
2026年大河ドラマ『豊臣兄弟』の主役・豊臣秀長とは?天下人の兄を支えた偉大なるNo.2
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名事典』(→amazon)
石川五右衛門/Wikipedia