こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【前田利長】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
家康暗殺計画と加賀征伐
利家が亡くなったとき秀頼は7歳。
ということは、三年経てば10歳、数え年なら12歳になります。
まだまだ幼いとはいえ、秀頼が名実ともに豊臣家を担っていける年齢ですね。
豊臣秀頼が秀吉の実子でなければ誰の子なんだ?粛清された陰陽師たちの中に……
続きを見る
五大老の一つである前田利長がここでシッカリと秀頼を補佐すれば、どうなるか?
そのことを誰よりも懸念し、そして対処法を考えたのが家康でしょう。
慶長4年(1599年)8月、利長は父の死から半年後、金沢へ帰ってしまうのでした。
帰国の理由は「鷹狩り」とか、あるいは家康から「少し休んで地元の政治を進めなよ」と言われたとか、そんな伝承があります。
いずれにせよ、それが前田家にとっては運命の分かれ道となりました。
この帰国をキッカケに、利長による「家康暗殺計画」が表面化。
前田家と徳川家の関係が悪化してしまい、一説には【加賀征伐(前田家の討伐)】が実行されそうになったというものです。
出典元が後世の史料のため「仮に家康を暗殺する計画があったとしても利長が関係した事実はない」として、加賀征伐そのものを否定する研究者もおりますが、兎にも角にも利長は、家康によって政権の中心から排除されるような形になってしまいます。
このころ別の五大老・宇喜多秀家も、同じく家康にやりこめられていたのですね。
母の芳春院(まつ)が人質になる
秀吉亡き豊臣政権において、着実に周囲を固めていく徳川家康。
その家康との関係を悪化してしまった(あるいはそう追い込まれた)前田利長。
利長としては徳川との関係修復を願いつつ、単に弱気なばかりではなく、万が一合戦になったときも考えて動いていたようです。
と、そこで機転を利かせたのが、利家の死後、仏門に入っていたまつ(芳春院)です。
彼女は自ら「私が江戸へ行けば、家康は前田家を潰すことはできないでしょう」と、人質になることを申し出ました。
人質というのは、相手が手を出してきたときのために生かしておくもの。この場合だと前田家のほうから家康にケンカを売らない限り、まつの身に何か起こることはありえません。
年老いた母を差し出すことを、利長は最初ためらいましたが、熟考の末、他に方法がないことを悟り、まつを江戸へ送ります。
……なんて手短にまとめると、ストーリーとしては非常に面白いものですが、実際は前田家と徳川家で事前に入念な交渉があったと考えるほうが自然なようです。
というのも、母を人質として送る代わりに、前田利長は妻の永姫(玉泉院)や実弟・前田利政を国許へ戻らせることに成功しているのですね。
加えて、異母弟で養子にしていた前田利常と珠姫(家康の孫で秀忠の娘)を結婚させることにも繋がりました。
人質を出した上に縁戚になったからには、前田家も徳川家も互いに手荒なことはできません。
それと引き換えに、力関係の上で前田家は、徳川家の傘下に入ったも同然になりました。
ちなみに、まつは慶長19年(1614年)まで江戸での生活が続いています。
※続きは【次のページへ】をclick!