前田利長

前田利長/wikipediaより引用

前田家

利家の嫡男で加賀119万石を築いた前田利長~関ヶ原をどう生き残った

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
前田利長
をクリックお願いします。

 


関ヶ原では東軍か西軍か

関ヶ原の戦い本戦に関しては、前田利長の意図はハッキリしていません。

出陣はしているのですが「丹羽長重を討とうとした」のか、「西軍本隊に対処するためだった」のか、その真意を測りかねるとも言われたりします。

しかし、実際は東軍であったのでしょう。

理由は2つあります。

1つ目は、会津若松の【上杉征伐】です。

石田三成の挙兵を促すことになった徳川軍主体の東北遠征として知られますが、このとき利長は日本海側を進み、米沢経由で会津へ攻め込む算段があったとされます。

当初から東軍サイドでなければそうはならなかったでしょう。

小山評定と上杉征伐
上杉征伐と小山評定からの家康vs三成~関ヶ原が始まる直前に何が起きていた?

続きを見る

そして2つ目。

上杉征伐の後に三成が挙兵したとき、利長は家康に上方へ来るよう上京を要請しているのです。

石田三成
石田三成・日本史随一の嫌われ者の再評価とは? 豊臣を支えた忠臣41年の生涯

続きを見る

その際、三成から前田家に対しては、当然ながら「西軍への参戦」を求める書状が届きますが、ここで利長が明確な返答をしなかったことから「関ヶ原での立場がわかりにくい」と指摘されます。

しかし、実際には家康方となって行動しているのが、後の進路からもわかります。

関ヶ原の戦場には出向いていないものの、上方へ向かう途中の慶長5年(1600年)8月に西軍・山口宗永の籠もる大聖寺城を攻略。

さらには同年8月、【浅井畷の戦い】で西軍だった丹羽長重と戦っています。

浅井畷の戦い
信長家臣の二代目たちが激突!浅井畷の戦いは“北陸の関ヶ原”と呼ばれる激戦に

続きを見る

関ヶ原の本戦には間に合わなくとも、十分に戦功は挙げていたのですね。

 


妹・豪姫の夫である秀家を助け

ただし、全く問題がなかったワケではありません。

人質から取り戻したばかりの弟・前田利政が、途中から参戦を拒否したのです。

明確な理由は不明で、利政の妻が三成の人質になっていたからとか、大聖寺城での戦いで疲弊したからとか、複数の要因が挙げられます。

どんな理由にしても、その行動が許されることはなく、利政は改易に処されてしまいました。

前田家としては、不幸中の幸いだったかもしれません。

利政の領地・能登一国は、そのまま前田利長に加増され、前田家は百万石を上回る大大名へと発展していくのです。

ぜんぶ父ちゃん(前田利家)のお陰やんけ――。

なんて指摘されるかもしれませんが、権謀術数うごめく中で、76.5万石だった利家時代から119万石まで発展させたのは相当なことでしょう。

関ヶ原に敗北し、徳川の追手から逃れていた宇喜多秀家(妻が妹の豪姫)の逃亡を手助けしていた可能性も指摘されています。

結局、秀家は捕らえられて八丈島に送られますが、それ以降も前田家が物品の援助をしていたことはよく知られた話ですね。

実は秀家が亡くなった後も続き、少なくとも1868年までに76回の援助記録があるほどです。

宇喜多秀家
秀吉お気に入りの宇喜多秀家 27歳で豊臣五大老に抜擢され関ヶ原後に島送りの生涯

続きを見る

豪姫
利家の娘で秀吉の養女~プリンセス豪姫が宇喜多秀家とドラマのような生涯を送る

続きを見る

変わったところでは、徳川秀忠の乳兄弟をブッコロしてトンズラしていた本多政重(本多正信の次男)を召し抱えたりもしました。

政重はその後、一度前田家を離れて上杉家に奉仕するのですが、その後、利長が隠居してからまた加賀に戻っています。

そして利長の弟・利常をよく支えました。

ちなみに、政重が戻ってくるときに間に入ったのが藤堂高虎です。

藤堂高虎
七度も主君を替えながら家康に信頼された藤堂高虎~元々は豊臣秀長の家臣だった

続きを見る

ここまで来ると利長の話からかなり離れてしまいますが、大藩前田家の礎を作った人物だけに、相応の政治外交力も備えていたということでしょう。

亡くなったのは大坂夏の陣があった慶長19年(1614年)。

享年53のことでした。


あわせて読みたい関連記事

前田利家
前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!

続きを見る

徳川家康
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

続きを見る

蒲生氏郷
信長の娘を正室に迎えた蒲生氏郷~織田家の若手エリートはどんな武将?

続きを見る

コメントはFacebookへ

筒井順慶
大和の戦国大名・筒井順慶は松永と戦い秀吉と光秀に挟まれて~36年の生涯まとめ

続きを見る

織田信雄
織田信雄(信長の次男)は本当に愚将だったのか?信長の血筋を現代へ繋げる

続きを見る

佐久間盛政(鬼玄蕃)
鬼玄蕃と恐れられた佐久間盛政(勝家の甥)秀吉の誘いも笑って一蹴!30年の生涯

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
大西泰正『前田利家・利長 (中世から近世へ)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
前田利長/wikipedia

TOPページへ


 



-前田家

×