かつて石田三成のイメージと言えば悪性評価の一辺倒でした。
しかし最近では「義を貫いた忠臣」という良性三成像も着実に広まっており、人気を取り戻しつつもあります。
では、変わりつつある三成の実像とは一体いかなるものか?
本稿では、慶長5年(1600年)10月1日に亡くなった三成の事績を史実ベースで追ってみたいと思います。
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身長156センチ 石田三成の骨格は華奢
石田三成は永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)にて誕生しました。
父・正継は石田郷の土豪であり、浅井家に仕える身。
三成は二男にあたり、幼名を佐吉(左吉という表記もあり)と言います。母は浅井家臣・土田氏の娘でした。
元亀元年(1570年)浅井家は、織田信長・徳川家康連合軍の前に敗北し、滅亡します【小谷城の戦い】。
※以下は小谷城の戦い関連記事となります
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関が原の戦い前後となると、石田三成と淀殿の関係が注目され、“浅井氏の姫と家臣”としてのつながりを強調するものもありますが、実際のところは不明です。
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主君の滅びた石田家の者たちは、その後新しくやってきた、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕官します。
そこで注目されるのがこのエピソード。三成少年期といえば、とにかく「三献茶」が有名です。
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残念ながら、このお話は別人のものであるとか、そもそも史実ではないとされています。
旧浅井家臣の子に過ぎない青年が、電撃出世をするはずがない、よほど賢かったのだろう――という後世の憶測が、このエピソードを生み出したのでしょう。
※ちなみに三成よりも早くこの三献茶と同じことをしたエピソードが島津家配下の種子島一族にあります・参考までに
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「三献茶」伝説はともかく、三成が仕事のデキる男であったことは確かです。
小姓として仕官したのち、二十代前半で有能な家臣として、他家にまで知られるようになります。
加藤清正や福島正則といった猛将とはひと味違い、事務系の仕事に適性を見せる三成。賢さを主君に見抜かれ、出世を遂げていた様子がうかがえます。
ちなみに三成は、遺骨をもとに複顔したため、身長や顔つきが判明しています。
身長は156センチで骨格はかなり華奢。江戸時代の記録によると、色白、目が大きく、睫は濃く、声は高かったとのこと。
復元された顔も無骨というよりも穏やかです。
近年演じた俳優の中では、『真田丸』の山本耕史さんが最も近い容姿ではないでしょうか。
若きエリート官僚・石田治部少輔
石田三成の名が他家にまで知られ、彼の名による“発給文書”が見られるようになるのは天正10年(1582年)頃から。
武田勝頼と武田家が滅亡し、【本能寺の変】で織田信長が倒れ、羽柴秀吉が天下取りへと邁進するようになった時期からです。
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【山崎の戦い】や【賤ヶ岳の戦い】あるいは【小牧・長久手の戦い】など。
合戦のみならず政治活動でもライバルを倒し、天下を目指す秀吉。
秀吉天下統一のステップ
三成も武功をあげますが、やはり彼は戦場よりも外交や内政で存在感を示すタイプでした。
天正13年(1585年)に秀吉は、従一位関白に就任します。
三成もこのとき、従五位下治部少輔に叙任されています。三成26才の時でした。
このころ担当した大事な役割は、対上杉家との交渉です。
当時の上杉家は、危機を脱したところ。
織田信長と対峙し、武田家の次は自分たちが滅亡すらのではないか、とすら考えていた上杉家です。ところが急転直下の本能寺により窮地を脱し、その後は天下人となる秀吉に接近を開始してました。
とはいっても、上杉家は始めから秀吉に臣従すると決めていたわけでもなく、両者には緊張感が漂っていました。
よく三成は人付き合いが悪く横柄だとされますが、重要な外交交渉を担う者が本当に無愛想で、取り付く島もないような人物であるとは考えにくいです。
むしろ彼は細かい気配りのできる一面も持ち合わせていたのではないでしょうか。
なお、三成と上杉景勝およびその家老である直江兼続が親しいという描写が、フィクションではよく見られます。
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残された三成→景勝宛の書状を見ると、なかなか親しげな様子のものもあるようで、天正14年(1586年)の景勝上洛の際には、三成が出迎えています。
ただし、彼の外交官としての活躍は上杉家に対してのみではなく、他の多くの大名家に対しても外交窓口として活躍しています。信頼できる外交窓口としての三成像が見えて来ますね。
この年、三成は堺奉行に任じられました。前任者の松井友閑とは親子ほどの年齢差があり、彼がいかに若くして重責を任されていたかがご理解いただけるでしょう。
結婚時期は不明ですが、この頃にはしていたと思われます。
相手は宇多頼忠の娘。実は、真田昌幸の正室も宇多頼忠の娘という説があります。
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この説に従えば、三成と真田昌幸は、妻が姉妹同士で義理の兄弟ということになります。
九州、小田原、検地と次々に
秀吉が天下を統一するにあたり、三成はますます忙しくなります。
九州の仕置き、後陽成天皇の聚楽行幸への対応、関東の北条氏攻め【小田原征伐】、そして検地。
ときに天皇を粗相なくもてなし、ときに大軍勢を率いて行軍するための輸送を徹底する――そんな実務能力を次々に求められるのです。
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外交担当としても忙しい日々が続きました。
秀吉が再三止めても蘆名氏を滅ぼした奥州の伊達政宗への対応。
出羽庄内で対立する上杉氏と最上氏への対応。
こうした「奥羽仕置」では、不満を持つ者による一揆も続発し、三成はこの対応にも追われています。
彼の性格が「義の人であったか?」というのはとりあえず横に置くとしても、この高い実務能力はきちんと評価すべきでしょう。
日本史の授業で習った秀吉の革新的な政策の数々を、実行に移していたのは三成ら官僚です。
大変な仕事量です。
そしてこの三成の役目が、彼の嫌われる一因かもしれません。
天下人秀吉の意志で行われて処理であっても、秀吉に怒りをぶつけることができずに、執行者である三成に怒りや苛立ちが向かってしまう、と……。
中間管理職の苦悩が三成にはつきまとっていたのではないでしょうか。
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