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【石田三成】
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秀吉の死と三成の失脚
慶長3年(1598年)8月。問題山積の中、秀吉が世を去りました。
秀吉というカリスマを失い、餓狼の中に置き去りにされた赤ん坊のような状況に陥った豊臣政権。狼が舌なめずりをしている中で、三成はどうすべきでしょうか。
もしアナタが三成であれば、どのような選択が最善であったでしょう?
秀吉とて、死後のことを考えていなかったわけではありません。
彼は遺言を残していました。
後事を託されたのは、著名な五大老と五奉行です。
【五大老】
・徳川家康
・前田利家
・毛利輝元
・上杉景勝
・宇喜多秀家
【五奉行】
・前田玄以
・長束正家
・増田長盛
・石田三成
・浅野長政
奉行の一人として、政権運営を担当することになった三成。秀吉の死は秘され、しばらくの間五奉行は、秀吉の命令という形で政務を行いました。
そして三成らは、山積みの課題を消化していきます。
まずはともかく朝鮮半島からの撤兵および和睦交渉。秀吉が亡くなる前から朝鮮軍は反転攻勢を開始しており、撤兵は難しいものでした。
三成は10月に九州へ向かい、撤兵指揮を行います。
その二ヶ月後の12月には再度大坂に戻り、政権へ復帰。撤兵が終わってからも問題は続きます。
不平不満を抱えた大名たち相手の論功行賞や大名領の再編成をせねばなりません。無謀な唐入りで、大名たちの不平不満は頂点に達しています。
こんな状況で三成が無事に政務を行えるはずもなかったのです。
「五大老・五奉行」制度は、動乱の中で機能してはいたものの、危ういパワーバランスの上に築かれたものでした。
しかも慶長4年(1599年)はじめには、大老の一人である前田利家が死去。
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この直後、彼を追い込む有名な事件が起きます。
七将(加藤清正・福島正則・細川忠興・浅野幸長・黒田長政・蜂須賀家政・藤堂高虎)に襲撃されたのです。
※家康書状に記された7名で、この他に池田輝政・加藤嘉明という説も
三成は伏見城の治部少丸に逃げ込み、難を逃れました。家康の屋敷に逃げ込んだという説は、史実ではありません。
近年、この襲撃事件は三成が家康暗殺を企んでいたことが前段としてあったとされる史料が見つかりました。
この史料を取り入れたのが、2016年大河ドラマ『真田丸』です。
結果、三成はこの事件の処遇として、佐和山城への隠退を余儀なくされてしまいます。
粉骨砕身して豊臣に尽くしてきたのに、政権から追放されてしまったのです。
凄まじい無念さであったことでしょう。
果たして三成はここからどうやって、再び豊臣を盛りたてようとしたのでしょうか……。
会津へ向かう家康、三奉行のクーデター
慶長5年(1600年)、秀吉の死からまだ二年も経ていないにも関わらず、家康は次なる天下人として力をつけていました。
この年、浮上したのが上杉景勝の上洛問題です。
上杉家は慶長3年(1598年)の時点で、越後から会津へと国替えを命じられていました。
しかし景勝はすぐに会津には向かわず、上方にとどまり大老の一人として政権運営の一端を担っていたのです。
三成隠退後、景勝は直江兼続とともに会津に向かいました。そして新たな領国で支配を固めます。
その矢先のことでした。
「景勝謀叛の恐れあり!」
上杉家を退去した藤田信吉から徳川側に一報がもたらされるのです。
ここで直江兼続が長い手紙(直江状)で徳川を挑発したか、してないか。その真偽は実は不明ながら、家康にとってみれば大老を排除する絶好の口実になることは確かです。
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景勝と三成が連携しているという噂もありましたが、本当かどうか、確証はありません。フィクションではその方が面白いから、よく採用される説ではあります。
奉行たちは、家康の意見に唯々諾々と従うほかありません。
彼らも賛同して上杉討伐が決まりました。
この派兵はただの上杉倒しではありません。今や家康こそが天下に最も近く、彼に逆らえばどうなるか示す軍事行動でもあったのです。
かくして会津へと向かう家康。徳川の中枢が留守となった上方では、長束正家・増田長盛・前田玄以ら三奉行が動き始めました。彼らは……。
彼らは秀吉の遺言をないがしろにする家康を「内府ちがひの条々」にまとめて糾弾したのです。
さらに大老の一人・毛利輝元を大坂に呼び出します。
家康に対するクーデターとも言える行為でした。大老の一人・宇喜多秀家もこの動きに同調します。
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三成はこうした徳川包囲網が整う中、ひっそりと活動を開始します。
公職から退いていた彼は、懇意の大名に私信を送り始めるのです。
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佐和山で隠居の身だった三成は、この機に乗じて奉行職に復帰。
上杉家や真田昌幸(真田幸村)のような、親豊臣派勢力と連絡を取り始めます。
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8月には伏見城を落とし、大坂城へ。さらに佐和山に戻ると、出陣の準備を整えます。
三成は尾張から三河あたりで家康を倒すことを念頭に、戦略を練りました。
一方、徳川家康は上方の動向を知るとサッと軍を引き返し、軍勢を整えます。
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上方の西軍が、政権のシンボル・豊臣秀頼を手にした以上、豊臣恩顧の将がこのまま従うのか、家康としては気になるところです。
フィクションですと「待ってました!」とばかりに軍を動かす家康像で描かれますが、実際は、味方のコントロールも十分でなかったフシが見て取れます。
要は、家康も内心では心臓バクバクだったでしょう。
「今後も徳川に味方するのか?」
「なれば行動で示すべし!」
かくして家康は、諸将に対して西へ向かうよう命じます。
言葉ではなく行動を求められた福島正則・池田輝政・細川忠興らは、電光石火の軍事行動で織田秀信(三法師)のいる岐阜城を陥落させました(岐阜城の戦い)。
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さらに彼らは三成の大垣城まで攻めようとして、家康に止められます。
家康やその嫡男・秀忠の隊は出発が遅れています。
彼らが到着する前に豊臣恩顧の将に必要以上に活躍されても困るわけです。
江戸で様子を見ていた家康は、9月1日に出立するのでした。
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