石田三成

石田三成/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

石田三成・日本史随一の嫌われ者の再評価とは? 豊臣を支えた忠臣41年の生涯

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そして文禄の役が始まった

秀吉の天下統一に伴い、豊臣に従属する者たちも大名として転封されます。

三成は美濃国内に10万石程度で封じられました。

そして文禄元年(1592年)。

秀吉は「唐入り」、すなわち朝鮮出兵を行うことになります。

参戦者は大変な苦労をしたことで知られるこの戦役。中でも、超大軍の兵糧や船舶輸送を管理した三成の仕事量は、膨大なものであったはずです。

渡海しない大名たちも、肥前名護屋城に滞在していたわけで、ともかく大変なことです。

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しかも同年3月に渡海した三成が直面したのは、厳しい戦況です。

名護屋にいた頃に想定していたものより、状況ははるかに深刻でした。

三成は漢城に入ると、諸将に秀吉からの命令を伝える役目を果たし、膠着した戦況の中、渡海したまま年を越します。

翌文禄2年(1593年)には、渡海先で“碧蹄館の戦い”や“幸州山城の戦い”に参戦。後方支援だけではなく、戦闘にも参加しています。

三成のいる漢城は、凄惨な状況でした。

人馬の死体が積み重なり、生き残る者も飢えてやせ衰え、まさにこの世の地獄です。もはや漢城の支配を継続することは不可能でした。

このまま、ただ撤退すれば、そこを追撃されて大損害を被ります。

もはや明との休戦交渉しか活路はありません。

やむをえず三成は、明軍の講和使・謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に向かうことになりました。

この和睦は、偽りだらけでした。

謝用梓・徐一貫は明の正式な使節ではなく、参将に過ぎません。また日本側は「明の征圧には至らないものの、降伏させた」と偽ることで、秀吉の怒りを抑えようとしていたのです。

所詮は、偽りの和睦です。

日本が勝利を前提とし、明の皇女降嫁や朝鮮王子を人質とする非現実的な条件をつきつけたため、交渉難航は必至……。

これに関わった三成らの心労を想像すると恐ろしくなります。

三成は和睦交渉と同時に、朝鮮へ再度渡り、「倭城」と呼ばれる要害の築城、朝鮮での在番体制の整備等をこなさねばならないのでした。

しかも朝鮮半島の陣中において、島津義弘の二男・島津久保が没したため、島津家に後継者問題が持ち上がりました。

三成はこの処理にも関わらねばなりません。

島津家に、反豊臣政権的な後継者が据えられることを、警戒しなくてはならなかったのです。

同時並行してマルチタスクをこなす。

その働きぶり、四百年後に史実を辿っている私ですら心配になるほどです。

 

秀次事件の衝撃

その頃、豊臣政権内には新たな問題が持ち上がっていました。

秀吉は結局朝鮮半島に渡海しないまま「唐入り」が終わろうとしています。これが新たな問題の火種となるのです。

秀吉は渡海を前提として、留守を守ることになる甥で関白の秀次に、権限を委譲しつつありました。

太閤と関白で日本を分割し、支配する体制になりつつあったのですが、秀吉は秀次の統治ぶりを厳しく叱る等して、両者の間に緊張感が生まれることになります。

同時に、秀次は秀吉からのあまりに大きな期待に、押しつぶされるようなプレッシャーも感じていたことでしょう。

この間、三成は島津領・佐竹領、そして蒲生氏郷が死去した蒲生領等、各地の検地を進めていました。前述の島津家の後嗣問題への関与は続いています。

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日明和平交渉も継続中。

しかし、これは前提に無理がありすぎまして、文禄5年(1596年)に破綻してしまいます。

そんな中、おそるべき事件が起こります。

文禄4年(1595年)7月15日。高野山で関白の豊臣秀次切腹してしまったのです。

しかも事件に連座して、関係者が大量に処断されました。

秀次の残された妻子(最上義光の娘・駒姫も含む)も、まとめて処刑されてしまいます。

これに三成が立ち会ったとされています。

幼子が母の胸から引き剥がされて刺し殺され、女性たちが斬首されていく光景を、一体どんな気持ちで見守ったのでしょうか。

従来、秀次はその悪逆ぶりや謀叛を企てたことから、切腹を命じられたのだとされていました。

しかし近年では、無実を証明する、あるいは精神的に耐えきれずに自ら切腹したとされるようになりました。

その事実を隠蔽するため、秀次に【殺生関白】という不名誉な名がつけられ、妻子を見せしめのように殺すという隠蔽工作が行われたのです。

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ただでさえ親族、特に男子が少ない豊臣政権。秀次とその息子が生きていたら、どうなっていたことでしょうか。

三成が豊臣家をなんとしても存続させたいのであれば、関ヶ原より前に尽力することがあったのかもしれません。

いや、それは歴史を知る現代人の言葉で、当時の彼にしてみれば不可抗力でしかありませんね……。

 

黄昏の豊臣政権

秀次事件のあと、三成は加増されます。

秀次の知行のうち、近江7万石が代官地に。そして近江佐和山19万4千石の所領が与えられたのです。

また三成は、秀次の家臣団を自らの家臣団の列に加え、更には増田長盛と共に京都所司代に任命さています。

大名としての三成は、領民に細やかな指示を出し、善政を敷いたとされています。

多忙な三成に代わって、嶋左近清興らが領国支配にあたりました。

かくして三成は豊臣政権の屋台骨として、欠かせない存在になっていきます。

前述の通り、明との和睦交渉は破綻してしまいました。

そして失敗することは目に見えている朝鮮への再派兵が決まります。

造船そして伏見城築城と、三成はまだまだ働き続けねばなりません。

伏見城の普請の際に、三成が真田信之とやりとりした書状からは、彼が病気にかかったことがわかります。これだけ働いていたらそれも無理のないところでしょう。

慶長2年(1597年)、朝鮮への再派兵が始まりました。

総大将は、豊臣一門の若き貴公子・小早川秀秋。今回の派兵は明の征服ではなく、朝鮮半島の領土切り取りを目的としたものでした。

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三成ら政権中枢にいる奉行は日本にとどまり、渡海した目付集が現地から戦況を報告するという体制です。

日本にいて現地の状況を知らない秀吉や奉行たちが、無責任に戦場へ命令してくるという状況は、確実に軋轢を生んだことでしょう。

「戦闘は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」

まさにそんな状況だったはず。

秀吉政権そのものに冷たい目線を向ける者もいましたが、恩義があってそうはできない者もいます。

彼らの憎しみの矛先は、三成へと向かうわけです。

実のところ三成は、戦況を冷ややかに、悲観的にみていました。

政権としての計画では、実力で朝鮮半島に領土を獲得し、そこに九州大名を転封、空いた九州に毛利や宇喜多を転封するという構想を練っていました。

こうした計画を不安がる輝元に対して、三成は「そんなことにはならないだろう」と見通しを述べているのです。

政権中枢の実力者である三成すら、正面切って無謀な計画に異議を唱えられない異常な状況でした。

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