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【北楯利長】
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大工頭も派遣して現地を視察
長谷堂城の戦いの活躍で名高い志村光安、義光の三男の清水義親らは計画に断固反対しました。
庄内各地から人も金も集めなければなりませんから、なかなか大変なわけで、仕方のない部分もあったのでしょう。
一方、庄内で治水に取り組んできた新関久正は利長の計画を強く推進します。
議論は決着がつきそうにありません。
義光は一旦議論を終わらせ、利長を呼び出し、直接意見を聞いてみることにしました。
そこで利長は熱心にプレゼンテーションを行ったのです。義光はその熱意だけではなく、計画そのものの完成度の高さに感心しました。
義光は、さらにプロの意見を聞くことにしました。
大工頭の若狭を派遣し、現地を視察させたのです。
若狭は利長の立ち会いのもと十日ほど測量を行い、計画が妥当であると診断しました。
慎重な義光も納得し、ついに翌年春より着工するという決断を下します。
工事の責任者はもちろん、利長。
慶長17年(1612)春、雪解けを待ってついに工事が始まりました。
およそ6000人を動員して、大工事が始まった
大堰の工事に動員されたのはおよそ6000人でした。
人夫は徴発とはいえ、給金と食事が出るため喜ぶ者もいたそうです。
険しい傾斜地が現場。
掘ったと思ったら崩れてくるような難工事であり、事故に巻き込まれて16人も生き埋めになったこともありました。
利長はこの事故に深く心をいためました。
こんな話もあります。
あるとき、地面を掘っていた人夫が大慌てで利長の元にやってきました。土の中から金銀財宝を入れた壺が出てきたというのです。
利長はこう言いました。
「これはきっと埋蔵金だろう。そなたらの心がけがよいからこのような功徳があったのだな。取っておきなさい」
これを聞いた人夫たちは大喜びで作業を再開しました。
実はこれは埋蔵金ではなく、利長が事前に埋めておいたプレゼント。
懸命に工事を行う利長たちに、山形の義光も心を寄せていました。利長と工事の進捗をやりとりし、その様子をとても喜んでいました。
高齢であり病がちであった義光は現場に行けないことを詫び、利長に「川風が冷たいだろうから」と褒美に頭巾を贈りました。
利長の肖像画や銅像は必ず頭巾を身につけていますが、この義光からのものをかぶっているという設定なのでしょう。義光は江戸にのぼったら幕府の首脳に必ずこの功績を伝えると約束しました。
事故のあと、工事は順調に進みました。
秋頃になり最終段階にさしかかったところ、最上川の流れに当たります。なんとしても埋めなければ完成しないのに、急流は埋めたと思ったらすぐ流れてゆきます。
これは川の神が怒っているからに違いない――神をしずめるため、利長は秘蔵の青貝摺の馬の鞍を、流れに投げ込みます。
すると急流は穏やかになり、工事を進めることができました。
この場所には現在【青鞍の淵】という石碑が建てられています。
米どころ庄内平野が始まった
慶長17年(1612)秋、およそ10キロにわたる大堰が完成しました。
荒野が肥沃な大地に生まれ変わり、周辺の地域では新田開発が急拡大。石高はおよそ工事前の十倍になったのです。
人々も集まり、新たな村も開拓されました。
義光はこの堰を「庄内末世の重宝」と激賞します。北楯利長は65歳にして、大事業を成し遂げたのです。
最上家の改易後、庄内藩をおさめた酒井家はさらに米どころとして開発を続けました。
その最初の大きな一歩は、北楯利長によって刻まれたのです。
安永7年(1778)には水神社が建てられ、利長が水神として祀られました。
この大堰は現在も使用されています。
利長は水神として「北舘神社」から今日も緑豊かな庄内平野を見守っているのです。
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記:最上義光プロジェクト(http://samidare.jp/mogapro/)
絵・小久ヒロ
最上義光の知名度アップを目指し、オンラインで情報発信を続けているサイトです。