1517年にドイツのルターから始まった宗教改革は、その後、各国へ飛び火していきました。
いろいろと複雑な中で、スコットランドは比較的わかりやすい……と言いましょうか、メアリー・スチュアートが蚊帳の外、ということです。
注目は1572年11月24日が命日であるジョン・ノックス。
凄腕の戦国武将の如く活躍した、スコットランドの宗教改革を見てまいりましょう。
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「王宮でミサをするなんてとんでもねえ!」
1561年――若きスコットランド女王メアリー・スチュアートが母国の土を踏みました。
遡ること19年前の1542年、彼女は誕生後に即位するものの、すぐさまフランスへ亡命させられていたのです。
そしてフランスの宮廷で育てられたのち、国王フランソワ2世の王妃となりました。
このフランソワ2世が夭折してしまったため、フランス宮廷から去り、母国へ戻ることとなったのです。
彼女がスコットランドの王宮でミサをあげると、家臣たちが露骨に嫌そうな態度を取り出しました。
ここから先、スコットランド方言をマイルドな東北弁で記載します。
「陛下、やめでくんちぇ。この王宮でカトリックのミサとは、とんでもねえこっです」
「はあ? ミサの何が悪いの?」
「はぁ~、な~んも知らねえんだな。ここスコットランドはカルヴァン派のプロテスタントの国だべ。そこでカトリックのミサあげるなんでのは、許されることでねえ。ノックス様が知ったら何て言うべか……」
「ノックスって誰よ? 偉いプロテスタントの聖職者? いいじゃん、呼んできてよ、そいつを。私が改宗させてやるんだから!」
メアリーはまだ18才。
美人でセクシー、明るく陽気どころか軽薄で強気、きまぐれで、とにかく衝動的な若き女王でした。
長年、ファッションの最先端フランスで育った彼女にとって、スコットランドは絶望的なまでに後進的で、一方、スコットランドの貴族から見た彼女は「チャラチャラしたフレンチギャル」なのです。
そんなメアリーは、ジョン・ノックスというプロテスタントの聖職者を呼び、説得するつもりでした。
18才の女王が説得できるほど甘い相手ではないのですが、メアリーはそんなことを知らなかったのです。
現れたノックスは、メアリー相手にひるまず、こう言い放ちます。
「カトリックのミサとはどんでもねぇごどだ。一回のミサは、千人の敵が上陸するよりはるがにおっかねぇ」
ノックスはメアリーを簡単に言い負かしてしまいます。
「んだんだんだ! やっぱりノックス様はいいごとを言う」
「ノックス様はスコットランドの宝だっぺな」
スコットランドの人々は感心し、ノックスが女王を説得する様子は絵画の題材として好まれるようにもなりました。
ノックスにメアリーが負けたのも当然。
彼は百戦錬磨の男でした。
ウィシャートの火刑
そもそもジョン・ノックスとは何者だったのか——。
当時、スコットランドは、共通するイングランドという敵がいるためか、フランスと親しい立場にありました。
宗教改革の風が吹き始めたのは、メアリーが誕生した16世紀前半。
当時はメアリーの母で、フランス貴族出身のメアリー・オブ・ギーズが、幼女王の摂政として実権を握っていたころです。
スコットランドで宗教改革を始めたのは、スイスで宗教改革推進者と接触していたジョージ・ウィシャートでした。
このウィシャートが火刑にされると、プロテスタントたちは激怒。
火刑を命じた枢機卿を暗殺し、セント・アンドルーズ城に籠城します。
暗殺に籠城……って、スコットランドのプロテスタントは宗教人というより武将のようですね。
これは取り締まろうにも、おっかない。
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