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【ジョン・ノックス】
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百戦錬磨のジョン・ノックス
摂政メアリーは、フランスの援軍を得て、城を落とします。
一方、この戦いに参加していたノックスは、ガレー船の漕ぎ手にされておりました。
ノックスは、捲土重来を誓い祖国をあとにし、その後はエドワード6世統治下のイングランドで布教。
続いて「血に飢えたメアリー」ことメアリー1世の統治下になるとスイスに逃れてカルヴァン派についてを学びます。
その合間に
『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』
という、摂政メアリーと女王メアリーを批判する本を書くのです。
彼は精力的に活動を続けていたのでした。
そして1559年、ついにノックスがスコットランドへ帰国すると、修道院で彼の説教を聞いた群衆が興奮して暴動を起こし、建物を破壊。
これをきっかけにプロテスタントvsカトリックの内戦状態になります。
ノックスはイングランド国王エリザベス1世の援軍を受けて、カトリックに勝利しました。
もはや武将としての才能もプンプン匂ってきますよね。
1560年にはエディンバラで宗教改革議会が行われ、「スコットランド信仰告白」が承認されます。
これにより、スコットランドはカルヴァン派のプロテスタントの国となったのです。
ノックス強い、凄いぞノックス!
カルヴァン派の長老会制度に
当時のスコットランド貴族は、すべてプロテスタントというわけではありませんでした。カトリックも多くいました。
彼らは信仰心よりも、政治情勢を見て誰に味方するかを吟味していたのです。
「どの宗教を信じるがは大事だけどよ、そのだめに死ぬごどはねぇ」
「んだな。命あっての物種つうからよ」
宗教のためなら無謀な戦いにだって挑みかねない、他の国の貴族とは違う、ドライな判断と言えました。
本気で宗教対立をすると、フランスやドイツのように悲惨なことになりますからね。
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そんな彼らはすぐに、彼らはメアリーを見捨てました。
彼女はあまりに政治的能力がなかったのです。
メアリーはスコットランドから亡命し、イングランドに保護を求めました。
彼女はイングランドで、カトリックのより所となり、そのため無謀な陰謀に加担しました。その陰謀を見過ごせなくなった1587年、呆気なく処刑されてしまいます。
カトリックとしての存在感は、イングランド幽閉時代の方があったと言えるかもしれません。
メアリーの跡を継いだのは、幼い息子のジェームズ(スコットランド王としてはジェームズ6世、イングランド王としてはジェームズ1世)でした。
彼の統治下、スコットランドでは「長老会制度」が確立します。
このあとも宗教をめぐる駆け引きはスコットランドではあるものの、宗教委改革はこの時点で確立したと言えるでしょう。
スコットランドの宗教委改革は、カルヴァン派であること、殉教者が比較的少ないことが特徴としてあげられます。
ドイツの貴族や騎士のように「宗教のためならば命も財産もいらない」と血みどろの戦いを繰り広げなかったこと、そもそもスコットランドの人口密度が低いことが要因としてあげられるでしょう。
彼の地の貴族たちは利害を判断し、極めて冷静に、宗教委改革を乗り切ったと言えそうです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『図説 宗教改革 (ふくろうの本/世界の歴史)』(→amazon)