1517年にドイツのルターから始まった宗教革命。
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等の宗教改革事情をご報告させていただきました。
本稿はそのラストとなるスイス編。
ドイツと隣接しており、ドイツ語圏でもあるスイスは早くから始まった地域にあたります。
中心となるのがツヴィングリとカルヴァンでした。
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ツヴィングリによる改革
スイスの宗教改革は、1519年から始まるとされています。
フリドリッヒ・ツヴィングリがグロースミュンスター教会にて、聖書読解を始めたことが端緒となりました。
ツヴィングリは村長の息子として生まれ、親戚には聖職者もいる家系です。
鉱山労働者の子として生まれ、それを誇りとしたルターとは異なり、彼は幼い頃から神学にふれるエリートといえました。
なにせ14才でバーゼル大学にも入学しており、卒業後には従軍司祭として傭兵に同行。
戦火の悲惨さを目にし、戦争に反対するようになります。
そして同時代のエラスムス・フォン・ロッテルダムやルターの影響を受け、次第に改革に目覚め始めたのでした。
内戦に巻き込まれて無念の戦死
ツヴィングリは、チューリヒにて「聖書主義」に基づいた改革を始めました。
1523年には、チューリヒ市参事会も彼の主張を認め、本格的な改革が進むことになります。
聖書主義とは、聖書に書いていないことはやらない主義のこと。
具体的に言いますと、以下のような点です。
・四旬節における肉食禁止廃止
・聖職者の結婚禁止解除
・修道院制度廃止
等々
「宗教委改革ってえらそうなこと言うけど、結局は結婚したり、四旬節にソーセージを食べたりしたいだけじゃないの?」
そんなことを言われつつも、ツヴィングリは改革を進め、自ら結婚もします。
1529年、ツヴィングリはルターら他の改革者とも話し合い、ともに力を合わせようとしました。しかし……。
「こんなミサの手順を考えたのは誰だあっ!」
「何を言うんですか。私の解釈でのミサの方が正しい。見せてやりますよ、ほんとうのミサをね!」
と、【ミサにおけるパンとワイン】の扱いで決裂してしまいます。
ただでさえわかりにくい宗教改革がさらにわかりにくくなるのは、このように考え型の違いで分裂するからなのです。
かくしてスイスの宗教改革をリードしてきたツヴィングリは、1531年、カトリックvsプロテスタントとの内戦で無念の戦死を遂げてしまいます。
カトリックの敵軍は、ツヴィングリの死体を探し出し、焚刑にしました。
しかし何故か心臓だけは燃え残った、と伝わります。
フランスから逃れてやってきたカルヴァン
ツヴィングリの死後、カトリックとプロテスタントの派閥争いは現状凍結する和平が結ばれました(第二次カペルの和平)。
しかし、このままではいけないと考える者がいました。
「ツヴィングリは無念の死を遂げた……しかし、スイスの宗教改革は止まらないッ!」
まだ30前の、若き改革者ハインリヒ・ブリンガーです。
彼はチューリヒで改革を進め、もう一人重要な役割を果たしたのが、フランスからやってきたジャン・カルヴァンでした。
カルヴァンは、ブリンガーと違い、当初はスイスで宗教改革をするつもりはありませんでした。
この時期のフランスに目をやりますと……。
宗教改革をともかく阻止すべく、流血と弾圧の激しい歴史が繰り広げてられている真っ最中。
そんなフランスから「教会を侮辱した檄文を記した罪」を問われ、火刑を逃れてジュネーヴにたどり着いたのが、カルヴァンだったのです。
要は、意図してジュネーヴに来たわけではないのでありまして。
そもそもは1535年に祖国を追われ、プロテスタントでも受け入れてくれそうな場所を転々とし、シュトラウビングを目指していました。
その途中、戦争を避ける為にやむなくルート変更し、前述の通りジュネーヴにたどり着いたのです。
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