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【ツヴィングリとカルヴァン】
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熱意にほだされスイスに向かうも追い出され
1536年夏。
ジュネーヴ滞在中のカルヴァンの宿泊先に、ギョーム・ファレルという男がやって来ました。
カルヴァンは『キリスト教綱要』を出版しており、宗教改革の新たなる担い手として期待を集めていたところです。
「カルヴァンさん、あなたの著作を読みましたよ。お若いのにあなたは素晴らしい見識をお持ちのようで」
「光栄です」
「ところでジュネーヴにはどのくらい滞在するつもりですか?」
「旅の途中ですし、準備が出来次第出立する予定です」
「いやあ、それは残念。あなたほどの御方がいれば、ここでの改革も進むでしょうに」
「まあ、旅の途中ですから」
「なんとういうことだ! あなたほどの方がここに立ち寄ったのは奇跡のようなことであるのに、すぐに出立するとは! 私は自分のことよりも、キリストのことを寝ても覚めても考えています! なんとしてもジュネーヴで改革を実らせたい! 我々がこんなにも神に身を捧げているのに、カルヴァンさん、あなたは見捨てるという……」
「えっ、ええっ? わかりました。滞在しましょう」
ファレルは半分脅すようにカルヴァンを説得、そのまま留まらせました。
そしてカルヴァンはビシビシと改革を断行。
腐敗しきっていたジュネーヴ市民の生活を改めようとしました。
しかしカルヴァンの改革は厳格すぎて、次第に反発されるようになります。
結果、カルヴァンとファレルを快く思わない一派が選挙により台頭し、1538年にはついに説教禁止となり、さらには追放されてしまうのでした。
帰ってきたカルヴァン
カルヴァンは、シュトラウビングへ向かいました。
そもそもがジュネーヴ滞在は予定外のことでしたし、それも当然と言えます。ところが……。
「やっぱりカルヴァン様が引き締めないとジュネーヴ市民は堕落します! 戻って来て下さい!」
「なんなんだよもう……」
カルヴァンは躊躇するものの、結局1541年にはジュネーヴに戻ることにしました。
帰還要請はジュネーヴ市民が身勝手だからというよりも、政治情勢の変化によるものでした。カルヴァン派が巻き返したわけです。
そんな助力を背景に「ジュネーヴ教会規則」を制定し、議会でも採択。
改革を進めると、フランスからユグノー(フランスのプロテスタント)たちが、カルヴァンを頼って逃げ込むようになります。
ジュネーヴ市民は「あの移民どもめ」と反発するのですが、彼らは勤勉で知識も豊富であったため、やがてジュネーヴでも受け入れられるようになります。
ツヴィングリに始まり、カルヴァンで極まる
カルヴァンは賞賛される一方で、敵も作りました。
彼が厳しく、狭量なことでも知られていたためです。
特に三位一体説を批判したミシェル・セルヴェを焚刑に処したことは、批判の対象になりました。
そんな風に敵を作りながらも、力強く宗教改革を進めたカルヴァン。
1555年頃までには盤石の体制をジュネーヴに築き上げます。
★
ツヴィングリに始まり、カルヴァンで極まる。それがスイスの宗教改革でした。
それにしてもカルヴァンがはじめはジュネーヴを通過するつもりであったのが面白いですね。
偶然が歴史を生むこともあるのです。
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文:小檜山青
【参考文献】
『図説 宗教改革 (ふくろうの本/世界の歴史)』(→amazon)