戦国武将の評価がころころ変わる

最上義光像

最上家

戦国武将の評価はなぜコロコロ変わる?特に鮭様が乱高下しすぎな件

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1970年代:義光銅像論争

昭和52年(1977年)、山形城址に最上義光像を建てる計画が持ち上がりました。

当時の「でん六」社長であった鈴木傳六氏たっての願いで作られたものでした。

鈴木氏は、それまでの低評価研究や風説にまどわされることなく、郷里の先人として義光を尊敬していたのです。

この像は馬が二本脚で立つという大変珍しいもの。技術的には不可能とされたものを、鈴木氏たっての願いでこの形にしたそうです。

最上義光像

全国的にもトップクラスの銅像として人気がありますよね!

これすべて、鈴木氏と銅像を造った皆さんのおかげです。

が、しかし……今ではすっかり観光名所となったこの像ですが、反対運動も起こっております。

「市民の平和な憩いの場に、なぜ血腥い梟雄の銅像を建てるのか?」

しつこいですが、それを言うなら、織豊期の戦国大名ほぼ全員が血腥くて銅像としては駄目になる……。

賛成派、反対派に別れて、激論が交わされました。今でこそ愛される銅像ですが、そんな論争が巻き起こっていたのです。

この論争は詰まるところ、1960年代以降の義光ネガティブキャンペーンの影響によるものでした。

しかし前述の鈴木氏のように風説にまどわされない義光ファンも、山形にはいました。

彼らは義光関連の史跡を整備し、弔う行事も続けていたのです。

 


1980-90年代:『独眼竜政宗』の影響は大きかった

80年代は全国各地で自治体の歴史が刊行された時期です。

最上義光の研究も進展を見せました。好悪を抜きにした冷静な評価が進んだ時期です。

1989年(平成元年)には「最上義光歴史館(→link)」もオープン。記念館、資料館、博物館と間違われることもありますが、歴史館です。

この時期は全国的には知名度が低かった最上義光の名が日本中に広まりました。

1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』です。

放映から30年を経てもなお、オールタイムベスト常連の傑作。義光は政宗の前に立ちふさがる悪役として登場したのです。

原田芳雄さんの熱演は素晴らしく、脚本的には人間性を演出された部分があったものの、多くの視聴者は「政宗をいじめる陰険な男」としてとらえてしまいました。

当時の人はドラマを今の人よりも信じる傾向がありました。

朝の連続テレビ小説『おしん』でヒロインの父を演じた俳優が、街中で「もっとちゃんと娘を育てろ!」と怒られたなんて話もありましたから。

また現在と違ってインターネットもなく、最上関連の書籍もない時代のことです。

数少ない情報源として大河ドラマにふれた人の義光評価は固まりました。

山形の人や最上研究者が「なんであんな悪人が好きなの?」「なんであんな男をわざわざ研究するの?」と言われてしまったこともあるとか。

このころ発売された『信長の野望』初期の作品では、顔グラフィックは原田芳雄さんに似ております。

 


2000年代:地道な巻き返し、そして「鮭様」

2000年代に入ると大河効果も薄れました。最上義光の研究も増えてきます。

武将としての評価だけではなく、山形の開発といった内政業績、連歌からうかがえる古典的な素養等、多岐にわたる研究が発表されました。

しかしこうした論文は、研究者以外には入手のハードルが高いもので、一般的な知名度は高まりません。

2009年の大河ドラマ『天地人』は直江兼続が主役。

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ドラマ本編に最上義光は出演しなかったものの、「北の関ヶ原」こと長谷堂合戦を中心とした戦いに注目が集まりました。

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ところが、です。

『天地人』には最上義光の存在そのものが出てこなかったため、否定的な影響はありませんでした。

また、2000年代後半からはインターネットの普及に伴い、それまであまり知られなかった義光の逸話が、掲示板やブログに書き込まれるようになりました。

ドラマやゲームとはひと味違う義光像に注目が集まり始めます。

特に鮭が好きであることから、インターネット上で発生した「鮭様」というニックネームは、なかなか人気があるようです。

ソーシャルゲーム等では義光と鮭のくみあわせが頻繁に見られるようになりました。

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