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桶狭間の戦い 信長は奇襲していない!戦国初心者も超わかる信長公記36話

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今回はいよいよ「桶狭間の戦い」当日です。

もはや説明が不要なほど、有名な合戦。
若き日の織田信長が、大大名の今川義元を討ち取る――という世紀の番狂わせが起こりました。

しかしその詳細についてはナゾが多く、今なお諸説の研究が進められておりますが、ここでは『信長公記』の記述をベースに進めたいと思います。

いずれの説にしても『信長公記』の描写を参考にしているケースが多く、無視しては通れないからです。
では、早速、見て参りましょう。

 

今川軍2.5~4.5万 vs 織田軍3~5千

桶狭間の戦いとは、どんな戦いだったか――。

兵力だけ見れば
◆今川軍2.5~4.5万
◆織田軍3~5千
と、いずれの説を見ても圧倒的に織田が不利です。

そのため従来は、義元に気づかれずに進軍した織田軍が、突如、襲いかかって勝利した【奇襲説】が主流でした。
そうでないと数字上の釣り合いが取れないからです。

しかし最近では、
「割とガチでぶつかったんでは?」
という正面攻撃説なども有力になってきていて……。

実は信長公記でも、方角や位置関係については曖昧ながら、
「背後を襲った」
というような奇襲的な表現は記されておりません。

進軍ルートも複数の説があり、ここでは信長公記の記述にそって話を進めていきます。

と、その前に大事なのが、当日のドンパチが始まるまでの下準備です。

桶狭間の戦い前の織田と今川は、どのような状態だったのか?
3行でまとめるとこうなります。

・信長の父である織田信秀の代から、ちょくちょく戦っていた
・織田から今川に寝返った武将がいて尾張の一部が侵食される
・義元がいよいよ本腰入れて尾張に侵攻してきた

絵・富永商太

そもそもなぜ今川は大軍を派遣したのか?

かつて広く信じられていた、京都を目指す「上洛説」は、今では「あり得ない話」とされています。

なぜなら仮に織田を破っても、その先に美濃の斎藤や近江の浅井・六角などがいて、
「そこから、どうやって進むの?」
という大きな問題があるためです。

ゆえに現在では、今川と織田の国境周辺にある城の奪い合い――それが桶狭間の戦いの定説となっていて、実際、そんな動きはありました。

織田と今川の両勢力が、国境付近の城をめぐって様々な対策を打っているのです。

詳細は前回(35話)をご覧いただくとして、

来るなら来やがれ桶狭間!準備編~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第35話

ここでは端的にマトメながら、本編へと進みましょう。

 

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義元は沓掛城へと軍を進めてきた

ときは永禄三年(1560年)5月。
新暦では梅雨真っただ中の時期に今川義元は軍を起こしました。

義元は17日、自らの勢力下にある
・沓掛城
に布陣し、織田領内の入り口に差し掛かります。

ここから最も近い敵(織田勢)の拠点は、
・丸根砦(佐久間盛重)
・鷲津砦(織田秀敏)
です。

文字だけだとややこしいので地図を表示しておきましょう。

◆地図確認①
まず以下の赤いマークが、事前に織田から今川へ寝返っていた3つの城となります。

左から
・大高城
・鳴海城
・沓掛城
と言い、地図中央の紫色が熱田神宮で、左上の黄色が信長の本拠地・清州城です。

今川方に寝返った赤色3城を力攻めで落としても被害が大きすぎる――ということで、信長は、その動きを押さえるため、それぞれの付近に砦を築きました。

戦国用語的には付城(つけじろ)と言いまして。
敵の城を攻撃&監視するための砦となります。

それが以下の地図で確認できます。

◆地図確認②
今川になびいた城に対して、信長が対抗策として築いた砦が以下の黄色い拠点です。

地図を少し拡大して見てみましょう。

◆鳴海城(中央赤)
に対して信長は、
・丹下砦
・善照寺砦
・中島砦
を築いています。

◆大高城(左赤)
に対しては、
・丸根砦
・鷲津砦
の2砦を設置しておきました。

◆沓掛城(右赤)
については、信長が手出しできず放置となっていたところです。
ゆえに今川義元も悠々とここへやってきたのですね。

一方、鳴海城と大高城は、上記のように信長もプレッシャーをかけておりますから、ここら辺が衝突のポイントとなるのは両者共に想像できるところでしょう。

実際、織田方の諸将は、今川軍の様子を観察し、信長へ以下のように報告しております。

「今川軍は、18日に大高城への兵糧を補給し、19日には我が軍へ攻め寄せるかと思われます」

織田にとっては残念なことに、大高城への補給が成功されてしまったのです。

それを取り囲んでいる
・丸根砦
・鷲津砦
はピンチとなりますね。

 

信長「人間五十年、下天のうちをくらぶれば」

今川方に大高城への補給を許してしまった――。

その一報を受けた信長の本拠・清州城では、にわかに緊張が走り、重臣が集まりました。

が、肝心の信長が、今後の方針を決めるための軍議を開きません。
日常と変わりない報告を受けたり、世間話などをしただけで、さっさと家臣たちを帰してしまうのです。

そのため
「運の尽きるときには、知恵の鏡も曇るというが、今の殿はまさにそうなのだな」
と呆れる者もいたとか。

もちろん著者である太田牛一の脚色という可能性もありますが、仮に事実だとすれば、
【この時点でもなお、信長が家臣の心を掌握しきれていなかった】
ということは否定できません。

信長自身、この日は早く休んだものと思われます。

なぜかというと、19日の未明、丸根・鷲津の両砦から
「今川軍の攻撃が始まりました」
と報告が入ったとき、すぐに戦支度を始め、立ったまま食事を済ませて飛び出したからです。

ここで象徴的なエピソード。

武装する前に、信長は
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」
の『敦盛』を舞ったのです。

絵・富永商太

余裕ぶっこいてた?
というよりは、むしろ心に余裕がないからこそ、好きな曲を舞って気持ちを落ち着けようにも思えます。

大将が「でん」と構えていないと、配下の将も兵も落ち着けませんからね。

 

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午前8時頃に丸根・鷲津砦が陥落

信長はまず、小姓五人だけを連れて一気に熱田まで馬を走らせました。
ここでいくらかの兵を待ったのです。

が、午前8時頃に丸根・鷲津砦が陥落したときでも、集まったのは騎馬がわずか6騎、兵は200ほどだったといわれています。

また、熱田神宮に戦勝祈願を行っています。
信長の信仰心については議論の余地があるものの、当時の人々にとって「神仏の加護」というものは非常に大きな意味を持ちます。

熱田神宮本宮

信長からすると、参拝した後に良いことが起これば
「熱田の神の加護ぞある! 神は我らに味方しているぞ!」
とすれば、兵の士気が格段に上がります。

逆に悪いことが起きても
「厄払いは済んでおる! 気にせず進め!」
とでも言っておけば、混乱による戦線崩壊は防げる――そんな計算があったのではないでしょうか。

もちろん、信長が武神である熱田神宮を本当に信仰していた可能性もありますが。
その場合は、兵と共に自分の心を落ち着ける意味もあったのでしょうね。

 

善照寺砦で将兵を集めて戦況を確認

熱田神宮から先は、海沿いのほうが近道です。
ただし、それでは潮の満ち引きの影響を受けかねません。

そのため、信長軍はまず熱田から丹下砦へ向かい、それから善照寺砦へ行って、再び将兵を集めて戦況をうかがいました。
この時点で5月19日の午前10時頃だったようです。

一方、丸根・鷲津を落としたという報告を受けた今川義元は、上機嫌で休息をとっていました。

この両砦を落としてしまえば、次のターゲットは丹下砦・善照寺砦・中島砦(織田)の3つです。

と、ここで今川軍はいったん休憩をはさみました。

この休息地点こそが、桶狭間だったといわれています。
同じく5月19日の正午頃に義元は、謡(うたい)を三番歌っていたといいますから、完全に物見遊山気分だったのでしょう。

実は丸根・鷲津の両砦を落としたのは、当時、今川配下だった松平元康(のちの徳川家康)と朝比奈泰朝たちの軍です。

元康にとって、この戦は今川氏への忠誠を示さねばならないところ。
早朝からの猛攻によって、その目的は果たしたものの、当然疲労はピークに達していました。

そのため彼らもまた、義元本隊とは別の場所で休息していたようです。




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かくして、いよいよ本番を迎えます。
視点を織田軍側に戻しましょう。
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