丹羽長秀/wikipediaより引用

織田家

丹羽長秀65年の生涯をスッキリ解説!信長に「友であり兄弟」と言われる間柄

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キャラ抜群の武将が揃った織田家臣団の中でも、とりわけ信長に重視されていたこの4人。

丹羽長秀
豊臣秀吉
柴田勝家
佐久間信盛

彼らには、その特徴を示すあだ名がありました。

「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」

割と言葉のまんまだと思いますが、ザックリ説明しますと、

・豊臣秀吉(藤吉)は木綿のように丈夫で使い勝手が良い
・丹羽長秀はお米のように何にでも合い、織田家に欠かせず
・柴田勝家は戦場では先陣を切って突撃するツワモノ
・佐久間信盛は「退却戦」が得意

となります。
今回はこのうち「米五郎左」こと丹羽長秀にスポットを当ててみます。

知名度や人気では勝家や秀吉に劣るものの、信長からの評価は決して低くないどころか最も信頼された家臣だったかもしれません。

※五郎左というのは五郎+左衛門尉(官位名)の略称

 

丹羽長秀は友であり、マジで親戚でもある

丹羽長秀は天文四年(1535年)生まれ。
織田信長(1534年生まれ)のひとつ下で、非常に年の近い家臣でした。

丹羽家は元々尾張守護・斯波氏の家臣で、途中から主君を織田家に鞍替えしたとされています。

信長家臣団の中では、わりと出自がはっきりしているほうですね。
天文十九年(1550年)頃から信長に仕えると、生涯一度も背信することなく、各地を転戦し続けました。

ちなみに柴田勝家はもともと信長の弟・織田信行の家臣で信長を排除しようとしたことがありましたし、秀吉も実は最初の主君が信長ではありません(今川家傘下の松下長則に仕えていた)。

年齢の近さと、長秀の誠実ぶり。
それが信長にとっては何物にも代え難い存在だったのでしょう。

「長秀は友であり、兄弟」とまで評しています。

イラスト・富永商太

さらには長秀の正室が信長の養女(姪っ子)であり、息子の丹羽長重に至っては信長自身の娘・報恩院と結婚するという二重の縁で結ばれているのです。

ご多分に漏れず信長も、政略結婚であちこちへ娘や養女を嫁がせていますが、同じ家臣の家と二回結婚したのは丹羽家だけ。
誼を結ぶだけなら一回でいいのですから、「アイツとその息子は信頼できる」と思ったからこその判断でしょう。

事実、永禄元年(1558年)頃からは、重要な手紙への署名などで、長秀の名前が登場するようになります。
この時期は、柴田勝家などと共に、お寺の領地を安堵する役目を担っておりました。

実は、永禄元年というと、信長は弟・信行の始末を終えたころ。
天下どころか尾張一国の掌握さえも危うかった頃から、丹羽長秀は信頼されていたんですね。

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重要拠点・佐和山城主を務める

美濃攻めでは投降してきた斎藤氏家臣を信長に仲介したり、猿喰城・堂洞城での戦いで活躍しております。
永禄十一年(1568年)に、信長が足利義昭を奉じた上洛戦でも、兵を率いて参加しておりました。

無事に上洛を果たした後、長秀は朝廷への使者や、畿内の行政、寺院や周辺大名への所領安堵など、さまざまな仕事をこなしております。
まさに文武両道のユーティリティプレイヤー!

と、もちろん、失敗がなかったわけではありません。
永禄十二年(1569年)の伊勢侵攻では、稲葉一鉄や池田恒興とともに大河内城への夜襲をかけて、敗走するという出来事がありました。

時系列が前後しますが、天正元年(1573年)の朝倉氏との戦いでも、敵の退却を見逃してしまい、信長に叱責されたことがあります。
しかしこれらは、長秀の仕事ぶりと比較すれば、ほんの小さなキズにすぎませんでした。

元亀年間に入り、織田家が本格的に浅井長政や朝倉義景の両氏と激突するようになると、長秀は要所の押さえとして活躍する機会が多くなっていきます。

姉川の戦いや、浅井家臣・磯野員昌いそのかずまさのこもっていた佐和山城攻めなどにも参加。
員昌が降伏した後は同城の主に任じられました。

”琵琶湖の南側を通って、岐阜と京都を往復するルート”としてこのエリアをみた場合、佐和山城はおおよそ中間地点。
さらに、浅井氏の本拠である小谷城とも近いところです。

二重の意味で重要なところを任されているわけですから、信長の長秀に対する信頼ぶりがうかがえるでしょう。

黄色=岐阜城(信長本拠地)
赤色=小谷城(浅井家本拠地)
青色=佐和山城(長秀の城)

他、兵の移動に使う舟の調達も、長秀がよく任された仕事でした。

一見単純に見えますが、大量に・早くモノを造らせるというのは、戦国時代においてなかなか難しいことです。

材料の確保も製造も、一般人の協力が必要不可欠。
依頼する側の態度如何で、敵を増やしかねません。

天正元年(1573年)に信長と将軍・足利義昭の対立が深まり、武力衝突に至ったときは、長秀が建造を請け負った舟が信長の足にもなっています。
なお、この戦いは、槇島城の戦いと呼ばれ、長秀も攻め手の一人として参加しておりました。

 

「拙者は生涯、五郎左のままで結構」

天正元年(1573年)9月、長秀は信長より若狭をまるごと与えられました。

実は、織田家の家臣で最初に「一国の主」になったのは明智光秀でも、豊臣秀吉でも、柴田勝家でもありません。
丹羽長秀です。

後の活動から察するに、居城は佐和山城のままだったと思われます。

近江から見て若狭は、そう遠くはありませんが、それでも遠隔地の行政はなかなか難しいものです。
これを長秀は大きな混乱も起こさず、うまくこなしてみせました。

若狭には”若狭武田氏”という守護大名がいたのですが、当時の当主・武田元明が若年だったことと、信長の威勢により抑え込めたようです。

かくして様々な仕事をほぼ完璧にこなしながらも、長秀は決して自分を過信・過剰評価することもありませんでした。
こんな話があります。

天正三年(1575年)、朝廷から信長に対し、官位昇進の勅諚(天皇からの許可)が出たことがあります。
信長はこれを辞退する代わりに、家臣達へ官位や名誉ある姓をもらえるよう願い出ました。

羽柴秀吉には「筑前守」の官位。
明智光秀に九州の名族の姓「惟任これとう」。

長秀にも九州の名門「惟住これずみ」を名乗ることが許されたのですが……断ります。

このときの言い分がまた彼らしいもので、
「拙者は生涯、五郎左のままで結構」
と言っていたそうです。

 

安土城普請の総奉行を任されて

五郎左のままで結構ーー。
というのは世間的な地位や名誉などいらないから、ずっと信長や織田家のために働きたい……という意味だったのでしょう。

最終的には信長のゴリ押しによって、長秀はこれを受け入れたものの、欲のなさがわかるエピソードです。

長秀に姓だけが許され、官位が与えられていないことから、
「信長は長秀を高く評価していなかった」
とする向きもあるようですが、それは違うと思われます。

なぜなら、天正四年(1576年)から始まった信長の一大事業【安土城の普請】では、長秀が総奉行を務めているからです。

安土城・天主

もしも評価が低かったら。
地下一階・地上六階なんて、現代建築にも匹敵する巨城の最高責任者を任せるはずがありません。

なんせ官位を与えられた羽柴秀吉も、安土城普請では長秀よりも下の縄張奉行とされています。

むしろ家臣間のパワーバランスを取るために、信長は長秀への官位を願い出なかった……と見るべきではないでしょうか。

戦場のような派手な仕事ではない。
その代わりに、安土城普請は長秀の誇りとなったことでしょう。

本来は天守(安土城では”天主”)には象徴的な意味合いが強く、住居として使われないものでしたが、信長は安土城の天主で日常生活を送っていたといわれています。
長秀以下、天主建築に携わった人々が、本当に良い仕事をしたのでしょうね。

安土城図/wikipediaより引用

 

重要イベント御馬揃えでは先頭に抜擢

長秀のようなナンバー2タイプだと、時に、いまいち能力や人望が足りなかったからトップになれなかったーーそんな評価が下されるかもしれません。

それは逆のような気がします。
非常に優れた能力だったからこそ、安心できる補佐として常に二番手・三番手の位置に据えられたとも考えられる。

例えば、天正八年(1580年)の北陸一揆攻めでは、若狭・小浜の地で船運をコントロールし、加賀の一向一揆勢に物資が補給できないようにしています。
ほかにも裏切り者や態度が曖昧だった大名の始末なども、長秀がよく任されていました。

後者はあまり気分の良い仕事ではありませんが、長秀が冷静に仕事をこなせる人物だからこそでしょう。
ヘタに情が厚い人物に任せてしまうと、助命嘆願などをして信長の逆鱗に触れたり、こっそり命を助けたりして、後々への禍根になりかねません。

比叡山焼き討ちの際にも、秀吉がこっそり助けた僧や一般人がいたらしいという話もあります。
信長の目をかいくぐろうとする者は、いくらでもいたはず……というか、殺害命令を出された黒田官兵衛の息子・松寿丸黒田長政)を、竹中半兵衛が匿っていたこともありましたね。

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上記の一件は、信長の早とちりというか、状況的には仕方ないんですけど、すべてがそういうケースばかありじゃありませんしね。

やはり信頼関係が大事なのでしょう。

天正九年(1581年)の京都御馬揃えでは、なんと長秀が一番に入場しています。

「御馬揃え」とは、簡単に言えば軍事パレードのこと。
このときは正親町天皇や多くの皇族・公家も居並ぶ、織田家の名誉をかけたものでした。
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