丹羽長秀

丹羽長秀/wikipediaより引用

織田家

丹羽長秀は安土城も普請した織田家の重臣「米五郎左」と呼ばれた生涯51年

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丹羽長秀
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勝家と秀吉は衝突を回避できなかった

天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】でも、秀吉方についています。

戦場へ軍を進めたわけではなく、牽制の役目を果たしたのです。

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本当は、勝家と秀吉の間に立ち、なんとか関係を修繕させようともしていたのですけれども……いかんせん、この二人は元々衝突する要因が多すぎました。

勝家は、信長の父・織田信秀から仕え、北陸方面を全般的に任されていた織田家の宿老。

かたや秀吉は、実力こそ充分にあるものの、どこの馬の骨ともわからない出自(少なくとも勝家より低い)。

加えて、信長存命中の天正五年(1577年)に決定的な衝突がありました。

能登畠山氏を救援するため、勝家と秀吉、そして長秀ら多くの織田軍が戦場へ向かったとき、秀吉が勝手に戦線離脱したのです。

詳細は不明ながら「秀吉は日頃から勝家と折り合いが悪く、行軍中に仲違いした」からだと言われてます。

「”羽柴”の”柴”の字は勝家からとった」

そんなエピソードと矛盾するようですが、両者の関係が前々から悪かったことがうかがえますね。

家中での力関係や次世代への影響が絡むとなれば……これはもう長秀でもどうしようもなかったでしょう。

結果、賤ヶ岳の戦いでは秀吉が勝利をおさめ、勝家は滅びました。

また、秀吉が従四位下参議の官職についた際、上洛を命じられて応じなかったことはありますが、このときもすぐに長秀から和解のための使者が送られ、大事には至っておりません。

 


小牧・長久手の後に死を迎え……

運命の分かれ道になりそうだったのは天正十二年(1584年)でしょうか。

秀吉と、織田信雄徳川家康がぶつかり、小牧・長久手の戦いが勃発するのです。

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丹羽長秀は、この戦場へは出向いてはおりません。

北陸の一向一揆に備えるためでした。

加賀にいた前田利家も、同じ理由で自領に留まっています。

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ただし、長秀の場合はこうも考えられます。

【一緒に三法師を守り立てていくつもりだったのに、秀吉が自ら天下人になろうという欲をあからさまに出してきたので、それに抵抗していた】

長秀は小牧・長久手の戦いが終わっておよそ半年後、天正十三年(1585年)4月16日に亡くなっているのですが、その際の逸話がなんとも物騒、かつグロテスクなのです。

いわく
【腹にできたしこりの痛みに耐えきれず、また秀吉への恨みの念から、自らしこりをえぐり出して秀吉に送りつけた】
とか。

実際にそんなことができるかどうかはさておき、長秀が最晩年に秀吉をよく思っていないという言動をしていたからこそ、このような話が伝えられているのでしょう。

小牧・長久手の戦いあたりから「長秀はガンにかかっていた」と推測されているので、”しこりができていた”というところまでは事実かもしれません。

徳川家康も、最晩年は「腹の上から触れられるくらいのしこりがあった」という記録があります。

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家康の場合は他の症状と併せて、死因は胃ガンだったろうといわれていますが、長秀については”恨み”のエピソードが強すぎるためか、確定していません。

寄生虫病だったという説もありますね。

 


一族の血筋は皇室にも受け継がれた

一方、秀吉のほうは、長秀との和解を考えていたフシもあります。

長秀の病が重くなったと聞いて、竹田定加(たけだじょうか)という医師を派遣しているのです。

定加は秀吉の母・大政所を診察したこともあるので、秀吉が信頼していた医師であることは間違いありません。

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そういう名医を送ったということは「今後も長秀と良い関係を築きたい」と考えていた可能性が高いでしょう。

ただし秀吉は、長秀の子・丹羽長重の代に大きく領地を削っているので、丹羽家を大大名として残すつもりはなかったようで……。

丹羽長重/wikipediaより引用

血筋は残り続けました。

長秀の直系男子は江戸時代に断絶していますが、三男・丹羽高吉が藤堂氏の分家・名張藤堂家の祖となり、続いています。

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また、六男の家系も存続しました。

さらに、正室生まれの娘・定光院が稲葉氏に嫁ぎ、その子孫が仁孝天皇となっています。つまり長秀は、現在の皇室にとっても先祖の一人なのです。

血を残すことが武家の最大の使命であるとするならば、長秀は十二分に“勝ち組”といえるでしょう。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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