織田信長みずから出陣して鎮圧した合戦なのに、なぜか注目度の低い【越前一向一揆】。
文字通り天正二年(1574年)に
越前(福井県)で起きた一向宗(浄土真宗)による一揆(民衆の武力行使)
であり、天正3年(1575年)8月14日に鎮圧となりました。
信長と一向一揆の対立と言えば、石山本願寺や伊勢長島での戦いが有名ですが、ここに来て突然の越前。
なんだかちょっとフシギに思いません?
地図で確認してみたらピンと来るかも知れません。
美濃と近江の北に位置する越前。
そうです、ここはもともと朝倉氏の領国であり、朝倉義景が信長に滅ぼされるまでは国として機能しておりました。
お隣・加賀の影響で一揆と無縁とは言い切れませんでしたが、基本的には朝倉氏の領国→織田家の統治下に入ったエリアです。
それがなぜ唐突に、越前一向一揆(1574~1575年)という状態になってしまったのか?
順を追って見て参りましょう。
越前一向一揆が起きるまでマトメ
まずは、朝倉氏の滅亡から一揆が起きるキッカケまで。
3つの重要ステップを押さえながら進めていきましょう。
①天正元年(1573年)8月
信長が一乗谷へ攻め入って朝倉氏を滅ぼす。
朝倉義景を攻め滅ぼした時点で、

朝倉義景/wikipediaより引用
信長は越前の統治を地元の武将に任せました。
旧朝倉家臣の前波吉継(=桂田長俊)です。
これが問題でした。
②天正2年(1574年)1月
前波吉継が横暴だとして、同じく旧朝倉家臣だった富田長繁が吉継を殺害。
長繁はさらに魚住景固とその一族も滅ぼしてしまう。
富田長繁は、前波と同じ旧朝倉家臣でした。
それだけに自分より権力を得た前波が気に入らず、民衆らに一揆を起こさせます。
そして他の旧朝倉家臣らと共謀して、前波を殺害したのですが、その流れで地元で信頼されていた魚住一族まで滅ぼしてしまいました。
これには他の朝倉家臣たちも猛反発!
③天正2年(1574年)5月
富田長繁に反感を抱いた勢力が加賀一向一揆の力を借り、長繁だけでなく朝倉残党までも排除。
越前は、戦国大名のいない一向一揆の国となる
旧朝倉勢は、富田長繁を滅ぼすために加賀の一向宗僧侶・七里頼周に協力を仰ぎました。

絵・小久ヒロ
しかし越前入りした一向宗徒らは、地元の一揆を巻き込んで旧朝倉勢力を排除すると、自分たちで越前を治めるようになったのです。
これが越前一向一揆の本格的スタートとなりました。
伊勢長島の一揆や武田氏との対決が先だった
越前は、先の地図にもあったように、織田家の支配地である近江、美濃と国境を接するエリアです(ただし越前と美濃の国境は高い山脈で遮断されている)。
本来なら信長も黙っていられないところでしたが、しばらく放置しておりました。
理由はシンプル。
このころ織田家は、他に重要な戦いがあり、越前にかまっていられなかったのです。
具体的には、長島一向一揆や武田勝頼との戦い(長篠の戦い)がありました。
長島一向一揆の決着(1574年)
長篠の戦い(1575年)
長篠の戦いは、大切な同盟相手である徳川家康の領国経営にも関わっており、相手も武田氏ですから最も警戒しなければならない強敵です。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用
長島一向一揆にしても、尾張や美濃と非常に近く、彼らとの戦いでは大勢の親類や家臣も失っており、いち早く倒しておきたい敵でした。
この両者に比べ、越前は少しだけ重要度が低かったんですね。
むろん、だからと言ってその間何もしていなかったわけではありません。
例えば羽柴秀吉には船の用意をさせ、海路からも攻め込めるような準備を整えておりました。

絵・富永商太
そして長島一向一揆が片付き、長篠の戦いで武田氏に大きな打撃を与え、朝廷や公家とのお付き合いも済ませた天正3年(1575年)の夏、ついに越前討伐へ動いたのです。
一揆の拠点は越前の国中に広がっていた
天正2年(1574年)8月12日、信長は岐阜を出発し、垂井に陣宿。
翌日は小谷城、14日には敦賀へ進みました。
信長はここに腰を落ち着け、各方面に軍団を割り振ります。
というのも、越前まるごと一国が一揆状態にあり、攻略すべき拠点が非常に多かったのです。
一揆勢には、主な拠点だけでも以下9ヶ所のポイントがありました。
【福井県南条郡南越前町】
・木目城
・鉢伏城
・虎杖城
【敦賀市】
・杉津砦
・河野丸砦
【南越前町】
・燧城
・今庄城
【南条郡河野村】
・大良城
・河野城
【ほか重要拠点】
・大聖寺城
わかりやすくするため地図でも確認しておきましょう。
※現在グーグルマップで確認できる5ヶ所の城砦を掲載
相手は一向一揆の国です。
敵は大軍ですし、信長も何度も痛い目に遭わされてきましたから、舐めてかかるような真似はせず、相応の準備で取り組んでおりました。
各拠点へ一斉攻撃スタート!
相応の準備とは他でもありません。
柴田勝家と佐久間信盛の両家老はもちろん、丹羽長秀・明智光秀・羽柴秀吉など、主要な武将をほぼ全員出撃させたのです。

柴田勝家/wikipediaより引用
兵数は、信長本隊が1万、全軍で5万程度と推測。
他家へ出ていた北畠信雄(信長の次男・織田信雄)、神戸信孝(信長の三男・織田信孝)も参加し、まさに織田家総動員といえるような布陣です。
そして天正2年(1574年)8月15日には各拠点へ一斉攻撃を始めました。
先陣は、かつての越前衆……つまり富田長繁などに属していた者たちでした。
織田家は海上からも大船団で同時に攻め込み、一揆方はパニック状態に陥ります。闇雲に襲いかかってくる敵も冷静に討ち取り、織田軍は数百単位もの首を挙げました。
まるで長島一向一揆ですね。
やはり戦闘のプロと、統率力の弱い一揆勢では戦いになりません。
討ち取った首は、この日のうちに敦賀の信長本陣へ送られ、首実検にされました。
一揆軍の指導者クラスについては、たとえ降参してきても、容赦なく斬首。
これも当時のことを考えると仕方ない一面がありますね。
もしも多くの者を赦して越前から追い出すと、今度は石山本願寺や加賀一向一揆の拠点へ逃げ込まれ、再び織田軍の脅威となる可能性が高かったのです。
火攻めを機に敵拠点が次々に落ちていく
同じ15日の夜、織田軍は府中の城に忍び込んで乗っ取り、火を放ちました。
これを見た木目峠・鉢伏・今城・火燧の一揆勢が動揺して退却。秀吉と光秀の隊が追撃し、府中で実に2,000余人を切り捨てたといいます。

明智光秀/wikipediaより引用
当然ながら、これで手を休める信長ではありません。
16日に本隊を率いて敦賀を出発すると、府中に陣を据えて指揮を執り、今城に福田三河守を置いて後方との連絡拠点としました。
そこへやってきたのが朝倉氏の生き残りで一揆勢に降伏していた朝倉景健です。
【姉川の戦い】で朝倉義景に代わって朝倉軍を率いた武人タイプの人物で、朝倉氏が滅んだときに織田信長に降伏。
その後、さらに一揆勢へ降り……哀しい経緯をたどっていました。
こうした再三の降伏となもなれば、よほどの手土産や能力が必要になります。
景健本人も、それについては思うところがあったのでしょう。一揆勢の指導者である下間頼照・下間頼俊らの首を持参して、信長の前に出たのです。しかし……。
信長は帰参を許さず景健を斬首。
このとき、景健の家来も三人が殉死したと伝わります。
「処刑した者は3~4万にのぼるのではないか」
一日置いて18日。
信長は、さらに一揆勢を追い詰めていきます。
柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄らには鳥羽城(鯖江市)の攻略、そして金森長近・原政茂には越前大野周辺の攻略を命じました。

金森長近/wikipediaより引用
織田軍の凄まじい猛攻を前にして、一揆勢の多くが山中に逃げると、信長は追撃と始末を厳命。
結果、19日までに1万9250人あまりの一揆勢が引き立てられてきたと言います。
被害者の数も凄まじいものとなり、他の捕虜等と合算して「処刑した者は3~4万にのぼるのではないか」と著者の太田牛一が推測しています。
この戦に限った話ではありませんが、巻き込まれた無関係の人々もかなりいたでしょう。
残党狩りはまだ続きます。
8月23日、一乗谷へ進軍した信長は、越前から加賀南部へ逃げた一揆衆の追撃を命じました。
この役目を請け負ったのは、稲葉一鉄父子、明智光秀、羽柴秀吉、細川藤孝、簗田広正などなど。

西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用
周辺での活動は少々長引き、28日には信長が豊原へ進んで、指揮を続けております。
と、そこへ一部の一揆勢と一向門徒が降伏してきました。
意外にも信長は、彼らの命を助けます。
権力のない者ばかりで、脅威を感じなかったからでしょうか。『信長公記』では「彼らの申し開きに筋が通っていたから」としていますが、それ以上の詳細は不明です。
こうして残党狩りの対象とした加賀の能美・江沼で一定の成果を挙げると、信長は別の仕事に移ろうとしました。
府中三人衆と北陸方面軍
ただし、別の仕事に取り掛かる前に、越前での要所をすべて押さえておかねばなりません。
一揆勢の拠点だった檜屋城と大聖寺城につては、これを修理させ、簗田広正と佐々長秋を入れて備えさせました。
9月2日には北ノ庄へ入り、築城を命じると共に、越前周辺の領地を家臣たちに配分。
越前のうち8郡を柴田勝家に与え、大野郡の2/3を金森長近、1/3を原政茂の領地とします。
さらに府中にも砦を築き、不破直光(不破光治の息子)、佐々成政、前田利家の三名を勝家の与力として控えさせ、柴田らとの相互監視・協力体制を作りました。

前田利家(左)と佐々成政/wikipediaより引用
いわゆる【北陸方面軍】ですね。
不破光治、佐々成政、前田利家の3名は後に「府中三人衆」と称される実力者たち。
次々に越前制圧が進んで参ります。
敦賀郡は、以前から引き続いて武藤舜秀に任せられ、丹波の桑田郡は細川藤孝に与えられました。

細川藤孝/wikipediaより引用
また、ここで林員清という武将を切腹させました。
その理由がどうにも理不尽。
遡ること数年前の元亀元年(1970年)――【志賀の陣】における振る舞いが悪かったことだろう、というのです。
タイミングが何とも謎ですが、同時期に近江の武将が数名罰されていますので、綱紀粛正かもしれません。
※ちなみにこうした動きで思い出される筆頭の佐久間信盛は天正四年(1576年)に追放されます
光秀や村重には別方面への出陣命令
織田軍の武将のうち、越前から直接、別方面へ進軍を命じられた者もいました。
一人は明智光秀で、そのまま丹後に出陣しています。
しかし丹後の地は光秀ではなく、一色義道に与えられました。
少々不可解ながら、これ以前に光秀が九州名族の姓である「惟任(これとう)」を許されたのが理由かもしれません。
信長はいずれ九州を攻略した際に、光秀にある程度広い領地を与えようと考えていたのでしょう。
もう一人は荒木村重でした。
播磨の奥へ出陣し、人質を取ってくるよう信長に命じられています。

絵・富永商太
荒木村重と言えば、織田信長を裏切り、黒田官兵衛を有岡城に幽閉したことで知られますが、それはこれから2年先、天正6年(1578年)のこととなります。
少し日が空いて、次は9月14日。
この間、一度豊原に戻っていたようで、再び北ノ庄へ移動したと書かれています。
そして滝川一益、原田直政、丹羽長秀に足羽山への陣屋普請を命じました。
10日ほどここで戦後処理などをしているので、「城や砦ほどのものは必要ないが、陣屋程度に腰を落ち着けられる場所が要る」と判断したのでしょうか。
信長がここに滞在していることを知った越前と加賀の地侍たちが、次々と挨拶に押しかけたため、だいぶ賑やかになっていたようです。
一方、この間に加賀の一部の一揆勢が攻勢に転じているため、織田家に従うことを良しとしない者もまだまだいました。
こちらは羽柴秀吉が撃破し、250ほどの首を挙げたとあります。
越前統治の九ヶ条を三人衆へ送る
信長はこの陣屋滞在中に、越前の支配についての掟を作り、不破光治・佐々成政・前田利家の三人に書面で送りました。
全部で九ヶ条あり、大まかに訳すとこのようなものです。
掟 越前国
一、むやみに課税をしてはならない。どうしても事情があって新しく税を課すときは、信長に相談すること。
一、地侍たちに私意を持たないこと。丁重に扱いつつ警戒し、油断するな。領地を与える約束をしたものについては、厳正に実行に移すこと。
一、裁判は公正に行うこと。どうしても当事者たちが納得できないときは、信長に伺いを立てること。
一、公家や寺社の本来の領地は、元の持ち主に返すこと。ただし、朱印状があって法的に筋が通っていればこの限りではない。
一、越前内でも、織田家の他の領地同様に関所を撤廃すること。
一、大国を任せるのだから、万事に対し留意すること。特に、武具と兵糧は常に充分に蓄え、5年10年でも保つようにしておくこと。
一、鷹狩は禁止する。ただし、砦を築くため等で地形を把握する必要があれば、例外とする。
一、石高にもよるが、二・三ヶ所は直轄地を残しておくこと。家臣が功績を挙げたときに褒美として与えるためである。良い働きをしても褒美がもらえなければ、武勇も忠義も形だけのものになってしまうからだ。
一、新しく問題が起きたときは、信長の指図に従うこと。しかし、それに無理があるならば、弁明して良い。理にかなう判断をするつもりである。信長の目が届かない場所だと思って油断しないように。
だいたいこんな感じです。
鷹狩というのが、ちょっと意外な感じですかね。

九ヶ条の中身を見てみると
・基本的には信長の指示に忠実でいること
・しかし理由があって従えないならきちんと言え
・筋が通っていれば、別のやり方を考える
という方針のようですね。
また、末尾には
「越前国については、柴田勝家に一任している。お前達の振る舞いは、柴田から報告するように命じた。
互いに切磋琢磨するように。
何か怠るようなことがあれば処分するから、常に心がけておくこと」
と書かれています。
勝家を含め四人とも、信長に古くから仕えてきた武将たちですから、信用していなかったわけではないでしょう。
越前が
主家滅亡
↓
一揆持ちの国
↓
織田領
という経緯を短期間でたどっているために、念には念を入れるような表現をしたものと思われます。
ここで下手を打ってもう一度似たような流れをたどっては、武田氏や石山本願寺、その次に控えた中国・九州攻略に支障が出てしまいますしね。
越前における信長の仕事は、これにて一件落着。
9月23日に北ノ庄を出発し、途中で椿井坂と垂井を経由して、26日には岐阜へ帰っています。
一年以上続いていた一揆を一ヶ月半程度で片付け、新しい政治体制の土台を作ったのです。
鮮やかな手腕としか言いようがないですね。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ






