越前一向一揆

意外にも自ら平定していた織田信長/wikipediaより引用

織田家 信長公記

信長が自ら鎮圧に出向いた越前一向一揆! キッカケは旧朝倉家の内紛だった

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越前一向一揆
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府中三人衆と北陸方面軍

ただし、別の仕事に取り掛かる前に、越前での要所をすべて押さえておかねばなりません。

一揆勢の拠点だった檜屋城と大聖寺城につては、これを修理させ、簗田広正と佐々長秋を入れて備えさせました。

9月2日には北ノ庄へ入り、築城を命じると共に、越前周辺の領地を家臣たちに配分。

越前のうち8郡を柴田勝家に与え、大野郡の2/3を金森長近、1/3を原政茂の領地とします。

さらに府中にも砦を築き、不破直光、佐々成政前田利家の三名を勝家の与力として控えさせ、柴田らとの相互監視・協力体制を作りました。

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いわゆる【北陸方面軍】ですね。

不破直光、佐々成政、前田利家の3名は後に「府中三人衆」と称される実力者たち。

次々に越前制圧が進んで参ります。

敦賀郡は、以前から引き続いて武藤舜秀に任せられ、丹波の桑田郡は細川藤孝に与えられました。

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また、ここで林員清はやしかずきよという武将を切腹させました。

その理由がどうにも理不尽。

遡ること数年前の元亀元年(1970年)――【志賀の陣】における振る舞いが悪かったことだろう、というのです。

タイミングが何とも謎ですが、同時期に近江の武将が数名罰されていますので、綱紀粛正かもしれません。

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※ちなみにこうした動きで思い出される筆頭の佐久間信盛は天正四年(1576年)に追放されています

 


光秀や村重には別方面への出陣命令

織田軍の武将のうち、越前から直接、別方面へ進軍を命じられた者もいました。

一人は明智光秀で、そのまま丹後に出陣しています。

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しかし丹後の地は光秀ではなく、一色義道に与えられました。

少々不可解ながら、これ以前に光秀が九州名族の姓である「惟任(これとう)」を許されたのが理由かもしれません。

信長はいずれ九州を攻略した際に、光秀にある程度広い領地を与えようと考えていたのでしょう。

もう一人は荒木村重でした。

播磨の奥へ出陣し、人質を取ってくるよう信長に命じられています。

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荒木村重と言えば、織田信長を裏切り、黒田官兵衛を有岡城に幽閉したことで知られますが、それはこれから2年先、天正6年(1578年)のこととなります。

少し日が空いて、次は9月14日。

この間、一度豊原に戻っていたようで、再び北ノ庄へ移動したと書かれています。

そして滝川一益原田直政丹羽長秀に足羽山への陣屋普請を命じました。

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10日ほどここで戦後処理などをしているので、「城や砦ほどのものは必要ないが、陣屋程度に腰を落ち着けられる場所が要る」と判断したのでしょうか。

信長がここに滞在していることを知った越前と加賀の地侍たちが、次々と挨拶に押しかけたため、だいぶ賑やかになっていたようです。

一方、この間に加賀の一部の一揆勢が攻勢に転じているため、織田家に従うことを良しとしない者もまだまだいました。

こちらは羽柴秀吉が撃破し、250ほどの首を挙げたとあります。

 


越前統治の九ヶ条を三人衆へ送る

信長はこの陣屋滞在中に、越前の支配についての掟を作り、不破直光・佐々成政・前田利家の三人に書面で送りました。

全部で九ヶ条あり、大まかに訳すとこのようなものです。

掟 越前国

一、むやみに課税をしてはならない。どうしても事情があって新しく税を課すときは、信長に相談すること。

一、地侍たちに私意を持たないこと。丁重に扱いつつ警戒し、油断するな。領地を与える約束をしたものについては、厳正に実行に移すこと。

一、裁判は公正に行うこと。どうしても当事者たちが納得できないときは、信長に伺いを立てること。

一、公家や寺社の本来の領地は、元の持ち主に返すこと。ただし、朱印状があって法的に筋が通っていればこの限りではない。

一、越前内でも、織田家の他の領地同様に関所を撤廃すること。

一、大国を任せるのだから、万事に対し留意すること。特に、武具と兵糧は常に充分に蓄え、5年10年でも保つようにしておくこと。

一、鷹狩は禁止する。ただし、砦を築くため等で地形を把握する必要があれば、例外とする。

一、石高にもよるが、二・三ヶ所は直轄地を残しておくこと。家臣が功績を挙げたときに褒美として与えるためである。良い働きをしても褒美がもらえなければ、武勇も忠義も形だけのものになってしまうからだ。

一、新しく問題が起きたときは、信長の指図に従うこと。しかし、それに無理があるならば、弁明して良い。理にかなう判断をするつもりである。信長の目が届かない場所だと思って油断しないように。

だいたいこんな感じです。

鷹狩というのが、ちょっと意外な感じですかね。

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九ヶ条の中身を見てみると

・基本的には信長の指示に忠実でいること

・しかし理由があって従えないならきちんと言え

・筋が通っていれば、別のやり方を考える

という方針のようですね。

また、末尾には

「越前国については、柴田勝家に一任している。お前達の振る舞いは、柴田から報告するように命じた。

互いに切磋琢磨するように。

何か怠るようなことがあれば処分するから、常に心がけておくこと」

と書かれています。

勝家を含め四人とも、信長に古くから仕えてきた武将たちですから、信用していなかったわけではないでしょう。

越前が

主家滅亡

一揆持ちの国

織田領

という経緯を短期間でたどっているために、念には念を入れるような表現をしたものと思われます。

ここで下手を打ってもう一度似たような流れをたどっては、武田氏や石山本願寺、その次に控えた中国・九州攻略に支障が出てしまいますしね。

越前における信長の仕事は、これにて一件落着。9月23日に北ノ庄を出発し、途中で椿井坂と垂井を経由して、26日には岐阜へ帰っています。

一年以上続いていた一揆を一ヶ月半程度で片付け、新しい政治体制の土台を作ったのです。

鮮やかな手腕としか言いようがないですね。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
武部健一『道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書)』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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