長い日本史において今なお最大のミステリーとされる【本能寺の変】。
天正10年(1582年)6月2日に起きましたが、なぜ明智光秀は織田信長を突如討つことになったのか?
事件の全貌はザッと以下の通り。
毛利氏との全面対決を意図した織田信長が、光秀に羽柴秀吉への加勢を命じ、これに応じた明智軍13,000が6月1日夜に丹波亀山城を出発。
進路を突如京都の中心地へと変え、6月2日未明、ほとんど守備兵のいない本能寺に襲いかかった。
衆寡敵せずして、織田信長は敗死。
遺体は見つからなかったが、燃え盛る炎の中で灰燼に帰したのであろう。
天下統一を目前にしてのこの悲劇――。
と、我々現代人の心を掴んで離さず、戦国ファンには今なお注目度の高い事件となっております。
重ねて申し上げますが、なぜ、明智光秀は織田信長を襲ったのか?
何十年も論争されていながら、その答えは未だハッキリとは出ておりません。
そこで本稿では、本能寺の変前後の出来事を見ながら、諸説ある光秀の殺害動機を取り上げていきたいと思います。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用
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本能寺の変~遺体を回収できず
光秀にとって一番の問題は、本能寺が焼け落ち、信長が絶命した後のことです。
肝心要の遺体を回収できませんでした。
阿弥陀寺の清玉上人が回収した――という話もありますが、同寺の言い伝えであって確証には至りません。

阿弥陀寺(京都)
やはり本能寺の中で灰になってしまったと考えるのが最も自然でしょう。
しかし、現実に遺体がないのは明智陣営にとっては厳しい話。
首や亡骸があれば信長の死を確実なものと周囲にアピールできるところでしたが、その死がアヤフヤなままでは畿内に点在していた織田傘下の武将をまとめきれなくて当然です。
京都周辺には細川親子(細川藤孝と細川忠興)や、筒井順慶など、明智と関係が深く、味方にしたい有力武将もおりました。
そこで協力を申し込むと、無残にも断られました。
特に細川家には、娘の細川ガラシャ(旧・明智たま)が嫁いでおり、最も味方になることを期待していた勢力だっただけにショックだったでしょう。
細川は、父親の幽斎が「信長追悼」を名目に引退することで、光秀の協力要請を華麗にスルーするのです。
そうこうするうちに、やってくるハズのない羽柴秀吉が京都に迫ってきました。
結果、山崎の戦い(同年6月13日)へと持ち込まれて光秀は敗北。
「なぜ光秀は、本能寺の変に及んだのか?」
という最大の謎は、永遠に闇の中へと葬られてしまいました。
五十七もの説がある
本能寺の変は、学術的にはそう複雑なことではない――とされています(参考:呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』→amazon)。
なぜなら、
◆織田信長が死亡
◆それを討った明智光秀も死亡
◆代わりに秀吉が天下人候補に浮上
事実だけを見ればそれで終了となるからです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
大事なのは政治的な流れであって、光秀が信長を殺した【動機】については、さほど問題視されません。
しかし、誰だって気になるでしょう。
なんせ、こんな大事件ですからね。
犯人・光秀の犯行動機は最大の興味であり、これまで数多の説が唱えられてきました。
例えば国史大辞典を引用してみてもザッとこんな感じです。
・怨恨説
・陰謀露顕説
・保身説
・政権奪取説
・武士の面目説
ウィキペディアには「57説」も提示されておりました。凄まじいですね。
本稿ではこの中から、主な説、一風変わった説などをピックアップ。
呉座勇一先生の『陰謀の日本中世史』(→amazon)も参考に、検証を進めて参りたいと思います。
一体どの説が有力なのか……。
怨恨説
フィクションなどでも、最もよく見られるパターンの一つが怨恨説です。
横暴な信長に、神経質な光秀が辛抱たまらずキレた! というもので、いくつか根拠も記されています。
主なものがこちら。
・家康の接待に「腐った魚を出した」として光秀が罷免される
・信長の下に稲葉一鉄を戻さない光秀がぶん殴られる
・光秀が本領を実質的に取りあげられる※本領を現状の【丹波近江】から、敵の領地である【出雲石見】へと変更された
怨恨説の答え
果たしてどれほどの信憑性があるのか?
怨恨説の信憑性については、いずれも江戸時代のエンタメ書物に書かれたものであるとして一刀両断に否定されております。
例えば「敵の領地(出雲石見)を与える」なんてバカな話、ちょっと考えても「ありえない」と思いませんか?
織田信長は横暴だからやりかねない! というのは、それこそ作られた織田信長像に振り回されております。

織田信長/wikipediaより引用
実際の信長は、身内や配下の者に甘いところもあり、そのため何度も裏切られているほどです。
そうでなければ、そもそも自身の周囲にほとんど兵の居ない裸状態で、光秀の行軍を許さないでしょう。
野望説
光秀は、心ひそかに天下の野心を抱いていた、それを実行した――というのが、そのまんま「野望説」です。
戦後ほどなくして唱えられた説で、根拠の一つとなるのが有名な【愛宕百韻(愛宕連歌会)】です。
愛宕百韻の詳細は、以下の記事に譲りまして、
-

愛宕百韻 ときは今 あめが下知る 五月かな|本能寺前に光秀が詠んだ真意は?
続きを見る
簡単に説明しますと……。
本能寺の変、数日前の5月28日、京都に近い愛宕神社で開かれた連歌会で、
光秀が以下のように心境を詠みました。
「ときは今 あめが下知る 五月かな」
なぜ、これが【野望】となるのか?
語句を分解してみましょう。
「とき」→「土岐氏=光秀の出身」
「あめ」→「天=天下」
「下知る」→「命令」
まとめると、ざっとこんな感じになります。
「とき(土岐氏の僕が)は今 あめ(天下に)が下知る(命令するからね!) 五月かな」
「土岐氏の僕が天下に命令するからね!」
なんだかいかにも面白い!と思ってしまいますよね。
もうこれでイイじゃん。
そう考えたくもなりますが……。
野望説の答え合わせ
根拠となる愛宕百韻は『惟任退治記』という軍記物に掲載されています。
その作者は秀吉の側近。
当然、中身は「秀吉サイコー! 光秀サイテー!」という論調で描かれており、史料的価値については疑問視されています。
愛宕百韻の原文についても「改ざんされたのではないか?」と指摘されるほど。
残念ながらこの説もぶった斬られてしまいました。
次に注目は、朝廷やその他黒幕が絡んだとする諸説です。
朝廷黒幕説(光秀勤王家説)
まずは光秀勤王説から。
勤王という言葉が、なんだか幕末じみておりますが、あながち遠くなく「天皇・朝廷のため!」という考え方になります。

当時の正親町天皇/wikipediaより引用
光秀はもともと朝廷のために働いていた。
しかし、全国に勢力を拡大し続ける織田信長が増長しており、このままでは天皇の上に立ってしまう――。
と、懸念した光秀が信長の野望を阻止するために動いたというものです。
そして、その発展形が朝廷黒幕説です。
黒幕とは、つまり【背後で囁いていた者たち】がいるってことで、それが朝廷だという話です。
「光秀はん、信長はんを討っておくんなはれ」とヒソヒソ囁いたっていうわけですね。
果たして皇族と公家が武家のTOP・織田信長を殺せなんてお願いできるのか?
たとえ光秀が勤王派だとしても、信長に密告されたらアウトじゃん。
そんなお願い、普通、できないだろ――。
と思う場面かもしれませんが、この説は、著名な在野の研究者さんたちが提唱したことによって衝撃を伴って広まりました。
何より劇的な展開のため、フィクションでも採用されやすく、皆さんもドコかで一度はお目にかかったことがあるのでないでしょうか。
果たして根拠のほどは?
朝廷黒幕説(光秀勤王家説) 答え合わせ
信長は天皇をないがしろにするどころか、これを保護しておりました。
戦国時代の大乱を受け、極度に貧乏になっていた皇室に資金援助をしていたのです。
「正親町天皇に譲位を迫っていた」→「信長が天皇になろうとしていた」なんて話もありますが、現実は真逆。
正親町天皇自身が譲位を望んでいました。
だったら譲位すればいいじゃん!と簡単に行かないのが朝廷という世界。
天皇の譲位には多額の資金が必要になり、その資金を工面しようとしていたのが他ならぬ信長です。
そんな相手を「殺して」なんて光秀にお願いするでしょうか。
というわけで、この説も否定されております。
ちなみに天皇ではなく、近衛前久という有力な公家もおりました。
-

戦国時代の近衛前久が大名並に波乱万丈だ~信長や謙信と交流した公家の生涯
続きを見る
しかし彼も信長派であり、光秀に殺害依頼をするはずもないとされています。
足利義昭黒幕説(光秀幕臣説)
信長に奉じられて15代将軍となった足利義昭。
途中から仲違いして、信長を討つべく「信長包囲網」などを推し進めたりしておりました。
それが、ことごく失敗。
【槇島城の戦い】で敗れた後は毛利氏の下に身を寄せ、そこから信長殺害の命令を光秀に出した――というのが足利義昭黒幕説です。

足利義昭/wikipediaより引用
もともと光秀は義昭に仕える幕臣でした。
なので「幕府再興を進めるために信長を討った!」という【光秀幕臣説】を発展させた内容となります。
これは素人目に見ても、なんだか唐突な印象ですよね。
しかし、この義昭黒幕説が発表されたときはかなり衝撃的だったようです。
というのも同説を提唱したのが、中世史を専門とする大学教授の研究者だったからです。プロに言われてしまえば、なかなか一般の戦国ファンには言い返せないものでしょう。
では、なぜそんな説が唱えられたのか?
光秀に信長討伐を命じたという根拠や義昭の構想をザッとまとめますと。
・「義昭の復権」を記している光秀の書状があった
・光秀は長宗我部や本願寺、上杉など、当時の敵対勢力と連絡を取っていた
・朝廷が信長を将軍にしようとしている(正式に室町幕府を終わらせようとしている)という状況
・義昭は自ら備後(岡山県)に幕府を作り、毛利輝元を副将軍にする

毛利輝元/wikipediaより引用
どうでしょう。
織田信長を頼っていた朝廷と異なり、足利義昭は恨みを抱いておりました。
そんな状況で本職の研究者に「義昭が黒幕だよ」なんて言われたら『うーん、これはあるかも……』と思ってしまいますよね。
しかし……。
足利義昭黒幕説(光秀幕臣説) 答え合わせ
確かに足利義昭は、かつて信長包囲網を敷いたことがあります。
しかし、信長に追われて毛利氏の下に身を寄せてからはそうした呼びかけを行っていません。
そもそも、この時点で織田軍に対抗しうる存在は
・上杉
・毛利
・北条
あたりの大名でしたが、毛利も上杉も、織田軍に攻められ四苦八苦の状態。
包囲するどころか囲まれかねない状況であり、実際、本能寺の変の翌日6月3日には、上杉方の魚津城が陥落させられておりました。
こうした諸勢力と連携を取ったってどうにもならない可能性が高いですし、そもそも光秀と上杉・毛利・北条に繋がりはなく、それこそ土壇場で裏切られる可能性だって低くありません。
義昭が毛利を利用するのであれば、豊臣秀吉と和睦を結ぶこともなかったでしょう。
ご存知のとおり、秀吉は本能寺の変を知るや、毛利との和睦を結んで中国大返しを敢行し、山崎の戦いで光秀を討っております。
毛利の下に身を寄せ、そして毛利輝元を副将軍にするという話が事前に打ち合わせているのであれば、わざわざ光秀を不利にする馬鹿な外交策があるでしょうか。
やはり義昭黒幕説にはムリがある。
なお、次の秀吉黒幕説は、さすがにもっと無理があるのですが、フィクションになると抜群に面白い。
こちらを見て参りましょう。
秀吉黒幕説
『古舘トーキングヒストリー~戦国最大のミステリー 本能寺の変、完全実況~』で研究者・磯田道史さんも「証拠はないが」とした上で【秀吉黒幕説】に触れておりました。
光秀は秀吉の援軍として中国へ向かう予定だったので、両者の間でやりとりはあった。
そのパイプで光秀が事前に秀吉に知らせることは可能という趣旨です。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉黒幕説 答え合わせ
あくまで可能であって何ら裏付けはありません。
そもそも確たる裏付けがあれば、磯田先生も提示されていたでしょう。
実際に磯田先生は「証明は今後も不可能」だとされています。
なぜなら仮に秀吉が黒幕だったとしても、その後、天下人になっていますから証拠はすべて消しているはずです。秀吉なら、関わった全員を殺すぐらいのことは平気でやるでしょう。
ただし、事件の背景に豊臣秀吉が絡んでいるってのはフィクションでは最高に面白いですよね。
例えば小説ですと、
あたりがこれに近い説ですね。
マンガでは『へうげもの』(→amazon)でしょう。

へうげもの1巻(→amazon)
読んでいると面白すぎて、同時に秀吉が恐すぎて震えてしまいます。
ブラック秀吉って、やっぱり迫力あるんですよね。
だからこそ黒幕説に取り上げられるのだと思います。
四国動乱説
かつて織田信長は、長宗我部元親に対し「四国は好きなだけ領地にしていいよ、取れたらね」と認めました(1575年)。
そのとき取次役を担っていたのが光秀。
当初は何ら問題なかったのですが、元親が破竹の勢いで四国各勢力を制圧していく中で、次第に状況が変わっていきます。
元親の勢力を邪魔くさく感じた信長が、元親に領地の返還命令をくだしたのです。
「土佐と阿波南部の領有は認めるけど、伊予と讃岐は返せや!」
「自分で取った土地を返す必要なんてない!」
と、信長に反発する元親。

長宗我部元親/wikipediaより引用
間に挟まれた光秀は、元親を説得すべく石谷頼辰(いしがいよりとき)を派遣しました。
石谷頼辰は、光秀の腹心・斎藤利三の兄です。
しかも長宗我部元親の義兄にもあたり(義理の妹が元親の正妻だった)、何かと繋がりがあります。
それが結局、説得できず、光秀はメンツを潰されてしまったのでした。
以来、光秀は信長にないがしろにされつつあり、苦境に陥ってしまったために謀反を起こすというものです。
四国動乱説 答え合わせ
四国説を裏付けるものとして、2014年6月と2015年5月、歴史的意義が深い新史料が提示されました。
林原美術館と岡山県立博物館が発表した書状です。
本能寺の変直前に明智家と長宗我部家がヤリトリしていた内容に加えて、信長と旧知の間柄だった近衛前久まで絡むというお熱いもので「本能寺の変・四国説」を強めるかと思ったら、否定する一面を備えておりました。
「領地を減らせ」という信長の無理難題を受け入れ、長宗我部が織田の軍門に下る意向を示していたのです。
要は、元親が折れたんですね。
すると新たな疑問が湧いてきます。
このころ織田信長は、織田信孝と丹羽長秀に命じて「四国方面軍」を編成させておりました。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
ほらやっぱり攻めようとしてたんじゃん。
元親との交渉がうまくいったならば、そんな必要ないでしょ。
という疑問もさらに湧いてきますが、信孝と長秀が【使者】であると考えればナゾが氷解するという指摘もあります。
混乱するばかりですね。
だからこそ、この四国動乱説をプッシュされる方も根強いのでしょう。
光秀高齢説
本能寺の変当時、55歳前後と考えられていた光秀が実は67歳だった。
「老い先短きゆえに実力行使にでたのではないか?」という見方です。
佐久間信盛や林秀貞のように、譜代の重臣といえども、働きが満足でないと躊躇なく解雇してきた信長。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用
それを間近で見てきた光秀が将来に不安を感じてクーデターを起こしたというものです。
確かに明智軍団も所帯が大きくなっており、突如、お役を奪われたら、残された一族と家臣が悲惨な末路になりかねません。
では、この説の真偽はどうか?
光秀高齢説 答え合わせ
確認したいのは2冊の史料です。
55才の根拠となる資料が『明智軍記』で江戸中期に編纂。
67才の根拠となる資料が『当代記』で江戸初期に編纂。
著者なども含めると『当代記』の方が史料的価値が高く、67才である可能性も高まってくる――とのことですが、単に歳をとったから殺すというのも根拠の薄い話ですよね。
ただ、一因にはなったかもしれません。
老い先短く、子孫たちを心配するのは致し方ないことでしょう。
家康謀殺計画からの発展説
明智家のご子孫・明智憲三郎さん執筆で、ベストセラーにもなった書籍が『本能寺の変 431年目の真実』(→amazon)です。

本能寺の変431年目の真実(→amazon)
当書籍では、主に5つの定説に疑問を投げかけ進んで参ります。
1 信長は、何故わずか数十人の少人数で本能寺に入ったのか。
2 光秀はなぜ謀反に走ったのか。
3 光秀は、本能寺での家康討ちが6月2日であることをいつ知ったのか。
4 家康は本能寺の変にどう関わっていたのか。
5 秀吉の「中国大返し」は何故可能だったのか。
家康謀殺計画からの発展説 答え合わせ
ここで引っかかるのが3です。
かなり突然に「光秀は、本能寺での家康討ちが6月2日であることをいつ知ったのか」という提言が出てきます。
これ、要は、織田信長は「本能寺で家康を討とうという計画を持っていた」ということが前提になっているのです。
最大の読みどころであり、かつ、最大の弱点とも言える論点ながら、人気の一冊。説としては可能性がかなり低く感じます。
ただし、マンガもヒットしており、エンタメとして読むにはオススメです。

信長を殺した男(→amazon)
最後にちょっとした疑問にも触れておきましょう。
結論:突発的単独犯行説
事前にアレコレ手回ししたとか。
計画を連歌に詠んだとか。
物語に描く以上、そういったディティールが必要なわけで、これまで数多の諸説が語られてきた本能寺の変。
個人的な結論は【突発的な単独犯行説】です。
千載一遇のチャンスが来たから襲った。
京都近くには、味方になってくれるであろう(と踏んでいた)細川幽斎・細川忠興・筒井順慶たちがいたので、まずは行動を起こして巻き込もう――。
光秀は、そう考えたのではないでしょうか。
重要なのは【千載一遇のチャンス】というところです。
織田家の最高権力者たる【織田信長】と【織田信忠】を同時に討てる機会であり、それはほとんど偶然やってきたものでした。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用
逆に言えば、事前にそんなことは予測できないから、計画的な犯行はハナから無理だと感じます。
呉座勇一先生のご著書やその他の研究者先生たちと同じ結論であり、なんだか乗っかってしまったみたいで気が引けますが、とにかく光秀が事前に誰かに話してしまうようなアホには思えません。
恨みもあったかもしれない。
老齢だったかもしれない。
たしかにそういう要因はありますが、だからといって背中を押すほどの熱量ではなく、とにかく
信長・信忠親子が無防備で揃って初めてなし得るもの
=事前には絶対に決められない偶然性の高いもの
が大きな要因ではないでしょうか。
歴史を揺るがす大事件だけに、綿密な計画とか、闇深い怨恨とか、人はとにかく合点のゆく説明を求めがちです。
「偶然」では片付けたくない――だからこそ、最も単純なこの突発的単独犯行説がスルーされてきたのではないでしょうか。
信長 直接の死因は?
信長の死因は、確認されておりません。
自刃の可能性が高そうですが、本能寺の中で誰かが介錯したのか、しないのか。
あるいは燃え盛る本能寺の中で、首尾よく自害などできたのか。
その辺の疑問を考察しているのが以下の記事です。
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信長の直接的死因は何だったのか|現代医師が考察する一酸化炭素中毒の可能性
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現役の女医が死因を合理的に分析していますのでよろしければ。
信長の遺体はなぜない?
前述のとおり、光秀は信長の遺体を回収できず、それがクーデター失敗の遠因の一つになったとも考えられます。
おそらくや跡形もなく燃えたのでしょう。
しかし前述の通り、それとは別に清玉上人が遺灰を阿弥陀寺へ持ち去ったという説もあります。
よろしければ以下の記事をご参照ください。
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信長の遺体は本当に阿弥陀寺に葬られたのか?清玉上人が関わる本能寺もう一つの謎
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信長に襲いかかった武将の行く末が面白い
本能寺の変と言いますと、ほとんど信長と光秀の話に収束されてしまいます。
信長は死ぬ前に『人間五十年~』と舞ったのかな?
とか
光秀は「敵は本能寺にあり!」って言ったのかな?
とか、そういう場面が気になってくるでしょう。
しかし、ここで一つ注目しておきたい方がおられます。
安田国継です。
またの名を天野源右衛門と言いまして、斎藤利三につかえていた武士です。
地味な名前ではありますが、この安田国継が信長に【一番槍】を突き刺したとされています。
それが致命傷だったとしたら、死因はこの槍になってきますよね。
他には森蘭丸(森成利)も討ち取っているとされ、なかなか大活躍されているのに、その後はほとんど注目されませんよね?
その辺も含めたマトメたのが以下の記事になります。
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本能寺で信長に一番槍を喰らわせた安田国継の生涯|本能寺後はどう生きた?
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【長篠の戦い】で大人気の鳥居強右衛門と競るぐらい面白い、この無名なツワモノ。
本能寺の変からちょうど15年後、慶長2年(1597年)の同日6月2日に亡くなるという数奇な運命の持ち主でもありました。
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【参考】
呉座勇一『陰謀の日本中世史』(→amazon)
池上裕子『人物叢書 織田信長』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
『国史大辞典』









