丹羽長秀/wikipediaより引用

織田家

丹羽長秀は信長に最も信頼された織田家重臣の一人~その生涯65年まとめ

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「拙者は生涯、五郎左のままで結構」

天正元年(1573年)9月、長秀は信長より若狭をまるごと与えられました。

実は、織田家の家臣で最初に「一国の主」になったのは明智光秀でも、豊臣秀吉でも、柴田勝家でもありません。

丹羽長秀です。

後の活動から察するに、居城は佐和山城のままだったと思われます。

近江から見て若狭は、そう遠くはありませんが、それでも遠隔地の行政はなかなか難しいものです。

これを長秀は大きな混乱も起こさず、うまくこなしてみせました。

若狭には”若狭武田氏”という守護大名がいたのですが、当時の当主・武田元明が若年だったことと、信長の威勢により抑え込めたようです。

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かくして様々な仕事をほぼ完璧にこなしながらも、長秀は決して自分を過信・過剰評価することもありませんでした。

こんな話があります。

天正三年(1575年)、朝廷から信長に対し、官位昇進の勅諚(天皇からの許可)が出たことがあります。

信長はこれを辞退する代わりに、家臣達へ官位や名誉ある姓をもらえるよう願い出ました。

羽柴秀吉には「筑前守」の官位。

明智光秀に九州の名族の姓「惟任(これとう)」。

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長秀にも九州の名門「惟住(これずみ)」を名乗ることが許されたのですが……断ります。

このときの言い分がまた彼らしいもので「拙者は生涯、五郎左のままで結構」と言っていたそうです。

 

安土城普請の総奉行を任されて

五郎左のままで結構――。

というのは世間的な地位や名誉などいらないから、ずっと信長や織田家のために働きたい……という意味だったのでしょう。

最終的には信長のゴリ押しによって、長秀はこれを受け入れたものの、欲のなさがわかるエピソードです。

長秀に姓だけが許され、官位が与えられていないことから、

「信長は長秀を高く評価していなかった」

とする向きもあるようですが、それは違うと思われます。

なぜなら、天正四年(1576年)から始まった信長の一大事業【安土城の普請】では、長秀が総奉行を務めているからです。

安土城・天主

もしも評価が低かったら、地下一階・地上六階という、現代建築にも匹敵する巨城の最高責任者を任せるはずがありません。

なんせ官位を与えられた羽柴秀吉も、安土城普請では長秀よりも下の縄張奉行とされています。

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むしろ家臣間のパワーバランスを取るために、信長は長秀への官位を願い出なかった……と見るべきではないでしょうか。

戦場のような派手な仕事ではない。

その代わりに、安土城普請は長秀の誇りとなったことでしょう。

本来は天守(安土城では”天主”)には象徴的な意味合いが強く、住居として使われないものでしたが、信長は安土城の天主で日常生活を送っていたといわれています。

長秀以下、天主建築に携わった人々が、本当に良い仕事をしたのでしょうね。

安土城図/wikipediaより引用

 

重要イベント御馬揃えでは先頭に抜擢

長秀のようなナンバー2タイプだと、時に、いまいち能力や人望が足りなかったからトップになれなかった――そんな評価が下されるかもしれません。

それは逆のような気がします。

非常に優れた能力だったからこそ、安心できる補佐として常に二番手・三番手の位置に据えられたとも考えられる。

例えば、天正八年(1580年)の北陸一揆攻めでは、若狭・小浜の地で船運をコントロールし、加賀一向一揆勢に物資が補給できないようにしています。

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ほかにも裏切り者や態度が曖昧だった大名の始末なども、長秀がよく任されていました。

後者はあまり気分の良い仕事ではありませんが、長秀が冷静に仕事をこなせる人物だからこそでしょう。

ヘタに情が厚い人物に任せてしまうと、助命嘆願などをして信長の逆鱗に触れたり、こっそり命を助けたりして、後々への禍根になりかねません。

比叡山焼き討ちの際にも、秀吉がこっそり助けた僧や一般人がいたらしいという話もあります。

信長の目をかいくぐろうとする者は、いくらでもいたはず……というか、殺害命令を出された黒田官兵衛の息子・松寿丸黒田長政)を、竹中半兵衛が匿っていたこともありましたね。

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上記の一件は、信長の早とちりというか、状況的には仕方ないんですけど、すべてがそういうケースばかありじゃありませんしね。

やはり信頼関係が大事なのでしょう。

天正九年(1581年)の【京都御馬揃え】では、なんと長秀が一番に入場しています。

「御馬揃え」とは、簡単に言えば軍事パレードのこと。

このときは正親町天皇や多くの皇族・公家も居並ぶ、織田家の名誉をかけたものでした。

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織田家の威信をかけた御馬揃えですから、当然、その先頭は最も優れていて、そつなくこなせる人物でなければなりません。

キャラクター豊かな織田軍団の中にあって先頭。

能力の高さだけでなく、他の諸将から見ても「長秀さんならしゃあないっすね」と周囲を納得させる心情もあったかもしれません。

いずれにせよ普通ではできないことでした。
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