こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【日本一の相撲好きは信長】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
「抱え相撲」の伝統は江戸時代以降も
江戸時代以降、太平の世が訪れると、「武家相撲」は下火となりました。
その代わりに人気が出たのは「勧進相撲」。寺社仏閣が修繕費用を集めるという名目で行われた相撲大会ですね。
幕府は、相撲興行に伴う騒擾を懸念して、取り締まろうとすらします。
江戸幕府のこうした姿勢は、織田信長とはかけ離れて見えます。
とはいえ、武家が相撲から遠ざかったとは言えません。
戦国時代から江戸時代にかけて、力自慢の相撲取りを大名家が抱えることを「抱え相撲」と呼びました。
江戸時代前期まで、抱え相撲は武芸奨励という名目でした。
そのため、自国出身の相撲取りを抱えていました。
しかしだんだんと時代が下るにつれ、優秀な力士を抱えることこそが大名家のステータスシンボルと化したのです。
そうなると、出身地はもはや構わなくなり、強い相撲取りがいると聞きつければ、他国からもスカウトしてくるようになりました。
ときには莫大な金を積み上げて、他藩から引き抜くことすらあったとか。
こうした相撲取りの移籍スキャンダルは、江戸っ子にとって格好の噂話の種となりました。
強い力士を抱えたい!その原点は信長さん
実利よりもステータスシンボルと化した抱え相撲は、無駄なうえに結構な維持費もかかるものです。
藩の財政難の際には真っ先に削減対象となりましたし、寛政の改革でも槍玉にあげられました。
それでも、抱え相撲を辞めたくない大名家はあったのです。
将軍が見る上覧相撲で、自分の家が抱える相撲取りが勝利を収めること。
これぞまさに抱え相撲を持つ藩にとって名誉なことでした。
むろん、こうした状況は相撲取り側にとっても、メリットがあります。
華々しい活躍で大名家に召し抱えでもされれば、士分に取り立てられるのです。苗字帯刀もできるとあって、憧れでした。
考えてみれば、この「抱え相撲」の元祖も織田信長と言えるのではないでしょうか。
「抱え相撲」は、江戸幕府と大名家の終焉とともに、終わりを告げました。
そのため相撲の歴史ではあまり重視されてはいませんが、ユニークな制度としてなかなか興味深いものです。
大名ならば相撲を鍛錬として嗜むだけではなく、強い相撲取りも抱えたい――そんな信長の発想は斬新でユニークなものであったのです。
なお、相撲そのものの歴史(ならびにモンゴル相撲の歴史)につきましては、以下の記事をご覧ください。
みんなが読んでる関連記事
-
相撲の歴史は意外の連続!1500年前に始まり明治維新で滅びかけていた!?
続きを見る
-
モンゴル相撲ブフ 最古の歴史は9,000年前だと? 強さの秘訣は伝統にあり
続きを見る
-
源頼朝53年の生涯まとめ! 出生から鎌倉幕府の設立 死因 その素顔に迫る
続きを見る
-
織田信長 史実の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ年表付
続きを見る
-
今川氏真は愚将か名将か~敵だった家康や信長と友好的に振る舞えるのはなぜ?
続きを見る
-
なぜ本能寺の変で光秀は信長を裏切ったか?諸説検証で浮かぶ有力説はコレ!
続きを見る
-
なぜ本能寺の変で光秀は信長を裏切ったか?諸説検証で浮かぶ有力説はコレ!
続きを見る
-
信長主催「京都御馬揃え」のメンツが凄ぇ!織田家の軍事パレードに天皇は?
続きを見る
文:小檜山青
【参考文献】
『相撲 (ものと人間の文化史)』(→amazon)