天正六年(1578年)の9月30日、信長が堺の港で鉄甲船のお披露目をしました。
「鉄の甲(かぶと・よろい)」の字が意味する通り、鉄を装甲に使った船……ではないか?といわれています。
なぜスパッと言い切れないか?
というと、この船に関する記録があまりにも心もとないのです。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
各地の強敵たちが信長を包囲する
まずは作られた経緯から見てみましょう。
当時、織田信長は室町幕府最後の将軍・足利義昭と大ゲンカの真っ最中でした。
-
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ
続きを見る
-
信長と共に上洛し京を追われた足利義昭(15代将軍)その後どうなった?
続きを見る
義昭は1573年【槇島城の戦い】で信長と戦い、これに敗れて京都を追い出されてから毛利家に身を寄せておりましたが、まだ諦めたワケではなく、四方へ書状を出して信長包囲網を敷かせておりました。
-
槇島城の戦い(信長vs義昭)で室町幕府滅亡! 意外と緻密だった将軍の戦略
続きを見る
このとき残っていた包囲網の諸勢力は
【北陸方面】
上杉謙信
【中国】
毛利輝元
【大坂】
石山本願寺
と言ったメンツです。
すでに武田信玄は亡くなっており、信長の本拠地近くでプレッシャーを与えていた浅井長政や朝倉義景も他ならぬ信長に滅ぼされております。
-
史実の武田信玄は最強の戦国大名だった?人物像に迫る生涯53年まとめ
続きを見る
-
浅井長政(信長を裏切った男)29年の生涯とは?その血は皇室へ続く
続きを見る
-
信長を二度も包囲した朝倉義景!しかし逆に滅ぼされた41年の生涯とは
続きを見る
それでもかなり豪華なメンツが残っておりますね。
見方を変えれば、織田家が、これだけの強敵を相手に対抗できる力を有していたとも言えます。
立ち向かう信長オールスターズ
この強烈な包囲網に対し、織田家は各武将が対抗して当たりました。
信長自らが出向せずとも、各方面で戦える人間がたくさんいたのです。
この頃の信長軍団の顔ぶれを見てみましょう。
【北陸方面】
上杉謙信
vs
柴田勝家
-
当初は信長と敵対していた柴田勝家~秀吉に敗れるまでの生涯62年
続きを見る
【中国】
毛利輝元
vs
羽柴秀吉
-
豊臣秀吉 数々の伝説はドコまで本当か? 62年の生涯まとめ【年表付き】
続きを見る
【丹波】
赤井・波多野
vs
明智光秀
-
史実の明智光秀とは?麒麟がくるとは何が違ったか?55年の生涯まとめ
続きを見る
【大坂】
石山本願寺
vs
佐久間信盛
-
織田家の重臣・佐久間信盛はなぜ信長に追放された?退き佐久間の最期
続きを見る
いずれも織田家躍進のもとになった勇将たち。この強力メンバーの中で、一人心もとない人物がいました。
信長の父・織田信秀の代から仕えてきた佐久間信盛です。
この人は【退き佐久間】と言われるくらい殿(しんがり・軍が退却するときに一番後ろになる部隊)が上手だとされていました。要は、自分から攻める戦が得意とは言われていない。
しかもこのとき佐久間が対峙していた石山本願寺は鉄砲集団・雑賀衆を擁しており、さらには毛利も味方につけ、非常に強力な存在でした。
※続きは【次のページへ】をclick!