九鬼嘉隆(左)と滝川一益の肖像画

建造にあたった九鬼嘉隆(左)と滝川一益/wikipediaより引用

織田家

信長考案の鉄甲船~毛利・村上水軍を破ったのは鉄に覆われた巨大船だったのか?

2024/09/29

天正六年(1578年)の9月30日、信長が堺の港で鉄甲船のお披露目をしました。

「鉄の甲(かぶと・よろい)」の字が意味する通り、鉄を装甲に使った船……ではないか?といわれています。

なぜスパッと言い切れないか?

というと、この船に関する記録があまりにも心もとないのです。

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各地の強敵たちが信長を包囲する

まずは作られた経緯から見てみましょう。

当時、織田信長は室町幕府最後の将軍・足利義昭と大ゲンカの真っ最中でした。

足利義昭(左)と織田信長の肖像画

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用

義昭は1573年【槇島城の戦い】で信長と激突。

敗れて京都を追い出されてから毛利家に身を寄せておりましたが、まだ諦めたワケではなく、四方へ書状を出して信長包囲網を構築していました。

このとき残っていた包囲網の諸勢力は

【中国】
毛利輝元

【大坂】
石山本願寺

と言ったメンツです。

すでに武田信玄は亡くなっており、信長の本拠地近くでプレッシャーを与えていた浅井長政や朝倉義景も他ならぬ信長に滅ぼされております。

それでもかなり豪華なメンツが残っておりますね。

見方を変えれば、織田家が、これだけの強敵を相手に対抗できる力を有していたとも言えます。

 


立ち向かう信長オールスターズ

この強烈な包囲網に対し、織田家は各武将が対抗して当たりました。

信長自らが出向せずとも、各方面で戦える人間がたくさんいたのです。

この頃の信長軍団の顔ぶれを見てみましょう。

いずれも織田家躍進のもとになった勇将たち。この強力メンバーの中で、一人心もとない人物がいました。

信長の父・織田信秀の代から仕えてきた佐久間信盛です。

この人は【退き佐久間】と言われるくらい殿(しんがり・軍が退却するときに一番後ろになる部隊)が上手だとされていました。要は、自分から攻める戦が得意とは言われていない。

しかもこのとき佐久間が対峙していた石山本願寺は鉄砲集団・雑賀衆を擁しており、さらには毛利も味方につけ、非常に強力な存在でした。

 

伊勢志摩水軍vs村上海賊

伊勢志摩を拠点とする水軍の九鬼嘉隆(元海賊)。

彼等と共に石山本願寺攻めを担当した佐久間信盛は、援軍に現れた毛利家傘下の村上水軍に木っ端微塵にやられてしまいました。

第一次木津川口の戦いと言います。

石山本願寺の復元イメージ/wikipediaより引用

せっかく石山本願寺を取り囲んで兵糧攻めにするところまでいったのに、目の前で悠々と食料や弾薬を運び込まれた二人に信長はプッツン。

さっそく当事者にお呼び出しをかけます。

信長「毛利の水軍にやられない船を作れ」

嘉隆「と言いますと?」

信長「毛利にやられた原因は何だ?」

嘉隆「村上水軍の焙烙火矢です」

※会話はイメージです

焙烙火矢(ほうろくひや)とは、陶器に火薬を入れた手榴弾みたいな武器のこと。

火をつけてから投擲する武器で、敵の船体に着弾すると、あっちこっちに火薬と陶器の破片が飛び散らす厄介なシロモノです。

九鬼水軍はこれを船(木造)にぼんぼん投げられて、一面ファイヤー状態になってしまい負けました。

第一次木津川口の戦い 村上水軍の焙烙火矢に大敗|信長公記第138話

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そこで信長が……。

信長「鉄なら燃えねーだろ!鉄で船作りやがれ!」

嘉隆「し、しかし鉄は錆びて長持ちしませんし……」

信長「カネなら惜しむな、とっとと作りやがれ!!」

というわけで、焙烙火矢に対抗するために作られたのが【鉄甲船】というワケです。

当時、鉄を精錬するのにはかなりの資金を必要としました。

ただでさえ鎧などの武具にも使うのに、船を覆えるほどの量を短期間に作るというのですから余計にそうです。

しかし、既に安土城の建築を始めるなど、信長には潤沢な資金がありました。

理由は色々ありますが、昔から商人を取り込み、肥沃な濃尾平野を手に入れていたことや、楽市楽座令などで経済を豊かにし、お金の流れを安定させることに注力していたことが大きいでしょう。

恐らくは戦費調達のために、予め備えていたのでしょうね。

こういう長期的なものの見方・原因を解決するための分析力などを見ると、「やっぱり信長ってスゲー!」と思わざるをえません。

 

本当に鉄で覆われていたのか?→証拠なし

しかし、この鉄甲船が本当に「鉄で覆われた船」だったのか?

というと、証拠がハッキリ残っているワケではありません。

英俊さん(延暦寺の荒れっぷりを嘆いたお坊さん)の日記にも「信長が鉄の船を作ったらしいよ。鉄砲が効かないようにしてあるんだってさ」と曖昧な記述しかありません。

『信長公記』にも、宣教師オルガンティノ(フロイスの弟分みたいな人)の手紙にも少し出てくるだけで、我々が確信できるような詳細は何も記されていないのです。

鉄甲船が実践配備された【第二次木津川口の戦い】では、首尾よく毛利に勝利しておりますので、焙烙火矢に対抗できるスペックではありそうなのですが……。

完全に鉄で覆われた船かどうかはともかく、重要な部分だけ鉄で覆ったという説もあります。

案外、完全な鉄甲を備えていたかもしれません。

信長が鉄甲船を見たとき、建造に当たった九鬼嘉隆・滝川一益の二人と、その部下達に黄金や加増など多くの褒美を出しているんですね。

九鬼嘉隆(左)と滝川一益の肖像画

建造にあたった九鬼嘉隆(左)と滝川一益/wikipediaより引用

一目見て満足するような船というと、やはり相応のモノだった可能性は否めません。

ちなみにリベンジ後はやっぱり錆びて使えなかったのか。

鉄甲船は記録からきれいさっぱり姿を消してしまいます。

江戸時代になってからの鎖国で大型船自体の建造が禁じられてしまうので、それ以降日本の造船技術が飛躍的に上昇することはありませんでした。

もし鉄甲船の技術が磨かれていたら?

幕末ごろには黒船なんかメじゃないくらいの戦艦ができていたかもしれませんね。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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