滝川一益

織田家

信長家臣で最強のオールラウンダー滝川一益! 62年の波乱万丈な生涯

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嫡男・信忠に付けたのは信頼されていたから

こうして実績と信頼を積み重ねてきた滝川一益。

信長は次世代でも、彼を重用しようとしていたフシがあります。

天正十年(1582年)の【甲州征伐】では、本隊である織田信忠軍の一員として参加しているからです。信忠の家老・河尻秀隆と共に、軍監を務めています。

このとき、信長は行軍中の一益に

「信忠はまだ若く、血気にはやりがちなので、うまく制御するように」

という手紙を出していました。

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実際は信忠の思い切った進軍により、信長が甲斐へ到着する前に武田家攻略が完了するほどでしたので、これは杞憂だったともいえます。

一益や秀隆から信忠に何かを献言したという話もないので、問題なく事が進んだのでしょう。

もちろん一益も、森長可らと共に、攻略戦の主力として働いています。

武田勝頼を追い詰め、天目山で自害に追い込みました。

この功績により、信長から上野国と信濃国佐久・小県の二郡を与えられ、厩橋城主となっています。

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所領ではなく茶器を所望

このとき、

”滝川一益は領地よりも、茶器の「珠光小茄子」を所望したが叶わなかった”

という有名なエピソードがあります。

「茄子」とは、全体的に丸みを帯びているタイプの茶入のことで、多くの茶人に愛された茶器です。

珠光小茄子については、他の特徴を示す資料や絵、はたまた来歴の記録が残っておらず、それらについては推測するしかありません。

名前からすると、おそらくは室町時代の茶人・村田珠光(1423~1502)の所有物だったと思われます。当時茶の道を愛していた者ならば、滝川一益ならずともほしくなるのはごく自然といえるでしょう。

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その代わり……なのかどうかはわかりませんが、信長は一益へ他にも褒美を与えています。

名馬「海老鹿毛」と短刀を褒美として与えたそうです。

海老鹿毛のほうはこれまたどんな馬だったのか不明なのですが、日本の伝統色として「葡萄色(えびいろ)」という色があります。

伊勢海老の甲羅の色に近いとされる、暗めの赤紫色ですね。

葡萄(ぶどう)の色にも近いことから、字面が混同されるようになったとか。

この色がもう少し茶色みを帯びると「海老茶」という色になります。

馬の体が紫がかっていた……というのもなかなか考えにくいですし、「鹿毛」=一番一般的な毛色の名もついているからには、海老茶に近い感じの色をした馬だったと考えるのが妥当でしょうか。

もっと黒ければ「黒鹿毛」や「青鹿毛」、「青毛」など、別の毛色名がありますし。

他にも、一益は古備前派の名刀も与えられていました。

現在は静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区)に所蔵されている

「古備前高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵」

という刀です。

「こびぜんたかつなのたち・つけたり・しゅぬりうちがたなこしらえ」と読みます。

「古備前派の刀工・高綱作の太刀で、朱塗りの鞘がついていますよ」という意味ですね。

 

北条、佐竹に伊達、蘆名とも通じ、そして本能寺で

国宝級の茶器――という望み通りの褒美は得られなかったものの、一益はその後も精力的に働きました。

まず上野周辺の国人たちについては、今までの領地を安堵(保証)することを告げています。

すると、国人たちの多くが人質を差し出し、一益や織田家への従属を申し出てきたそうです。もちろん、関東の武士全員が従ったわけではありませんが。

また、後北条氏や佐竹氏・里見氏だけでなく、東北の伊達氏・蘆名氏とも連絡をとっており、織田家が東日本を支配するための下準備に手を付けていた……といえます。

さらに、国人らを厩橋城に集めて能興行を行うなど、地元との融和に務めていたと思われるフシもあります。

このとき、一益は息子たち二人と共に「玉鬘(たまかずら)」を舞ったそうです。

玉鬘とは、源氏物語に出てくる女性の一人。彼女は亡くなった後も、恋の妄執に囚われていた……という、能ではよくあるタイプのお話です。

滝川一益が何を思ってこの曲を選んだのか。少々、興味を惹かれますが、茶の湯といい、これだけあっちこっちで働いていて、よく文化的素養を身につける時間があったものですね。

こうして、その場でできる最善を尽くしてきた一益。

彼の努力は天正10年(1582年)6月2日、【本能寺の変】によって実を結ぶことなく終わってしまいます。

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変について、一益が知ったのは数日後のこと。

記録によって多少の誤差がありますが、6月7~9日あたりだったといわれています。

変の一件を周囲に隠すか。

あるいは堂々と発表するか。

多くの人ならば、前者を選ぶことでしょう。

しかし一益は、あえて周辺の諸将にこのことを知らせ、

「某(それがし)はこれから上方に帰り、信雄公・信孝公をお守りして主君の仇を討たねばならない。

もしこの機に乗じて一益の首を取ろうというなら、遠慮なく来るがいい。

某はこれから北条勢と決戦してでも上方に向かう」

と宣言した……なんて話が、いくつかの書物に出ています。

が、これはさすがに潔すぎるというもの。

小泉城(群馬県大泉町)の主・富岡秀高に対しての6月12日付けの手紙で「別段変わったことはない」と書いています。

おそらくは、日頃の一益の態度が好ましかったからこそ、このような潔い話が作られたのでしょう。

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