滝川一益

滝川一益(江戸時代後期の栗原信充作)/wikipedia

織田家

滝川一益は信長家臣で最強のオールラウンダー?62年の波乱万丈な生涯

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安土城建設では長秀の補佐をして

戦以外の場面でも、たびたび滝川一益の名が登場しています。

例えば、信長と将軍・足利義昭の関係が悪化し、互いに起請文を提出してなんとか事を丸く収めようとしたことがありました。

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この起請文に、一益が織田家の重臣の一人として署名しているのです。

また、天正四年(1576年)に始まった安土城建設では、総奉行・丹羽長秀の下で工事に携わっていました。

特に「蛇石(じゃいし)」という巨大な石を動かした件については、当時の織田家臣たちの連携が記録されています。

この石、信長の甥・津田信澄が最初に担当していたのですが、あまりにも大きすぎて、安土山の上へ運ぶことができなかったのです。

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それを「一益・長秀・秀吉の三人で一万人の人足を指揮し、まる三日かけて動かした」という話が信長公記に書かれています。

安土城・天主跡

ちなみにこの蛇石、本能寺の変の後に安土城が焼失してから、現在に至るまで発見されていません。

推定約10m、約112トンという巨大な石のはずなのですが……。

ナントカ埋蔵金よりは現実味のある話ですし、盗掘に遭うようなものでもないので、いつか見つかるかもしれませんね。

 

第三次信長包囲網

一方、この天正四年という年は、信長の強敵が再び増えてしまった年でもありました。

丹波の波多野秀治が裏切り、これをきっかけとして織田家と一旦は和睦していた石山本願寺も動いています。

当然、信長は激怒して兵を動かし、その一員として滝川一益も参加しました。

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これに対し、越後の上杉謙信が織田家と対立する意向を見せます。

謙信も北陸で一向一揆衆に悩まされていましたが、信長という共通の敵ができたことで、一向一揆の親玉である本願寺と和睦したのでした。

いわゆる第三次信長包囲網です。

※第一次信長包囲網……浅井朝倉を中心に延暦寺や本願寺なども加わって織田家を包囲

※第二次信長包囲網……第一次のメンバーに足利義昭や武田信玄も積極参加して強固な包囲網となるも、信玄死亡により崩壊

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今回の包囲網については、本願寺関連を主敵として見ると勝機がありました。

戦国期の本願寺は

・長島
・越前
・石山(本拠)

の三ヶ所で信長と対立しており、これに周囲の大名が加わった形です。

しかし、すでに長島勢は1574年に滅ぼして他ならぬ一益が伊勢長島を制圧しておりましたし、他の領地にも信長の家臣で動ける者たちがおりました。

一益のように遊撃部隊として戦地へ赴ける武将もおります。

 

第二次木津川口の戦い

滝川一益は北陸から近畿まで、広い範囲の戦場に出向き、天正六年(1578年)11月には、再び九鬼嘉隆とタッグを組んで【第二次木津川口の戦い】に臨みました。

石山本願寺の水域を守る毛利水軍との戦いです。

実は、天正四年(1576年)7月、すでに【第一次木津川口の戦い】が行われ、九鬼嘉隆は毛利水軍相手に完敗しておりました。

毛利水軍の使った”焙烙火矢”という、手榴弾のような武器にこっぴどくやられてしまったのです。

陶器の中に火薬をつけて敵に投げるというもので、木造の舟ではひとたまりもありませんでした。

そこで信長は嘉隆と一益に新たな舟の建造を命じ、リベンジを挑ませたというわけです。

このときの舟が俗に”鉄甲船”と呼ばれているものですが、詳しいことはわかっていません。

信長公記では

「嘉隆に大船六艘、一益に白い大船を一艘仕立てさせた」

とだけ書かれています。

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毛利水軍は第二次木津川口海戦でも焙烙火矢を用いていたとされるため、嘉隆や一益の舟には、何らかの工夫がされていたことは間違いなさそうです。

いずれにせよ、このときは織田方の勝利となりました。

また、この戦と並行して起きていた荒木村重の謀反、それを始末するための有岡城の戦いにも、一益は参加しています。

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ここでは攻め手の主力として戦う一方で、城方の将を説得して寝返らせるなど、様々な功績を上げています。

戦場におけるこういったある種の器用さは、

「進むも滝川、引くも滝川」

と評される所以でもあります。

信長の家臣たちはそれぞれ、一点特化タイプや文武両道タイプなど、さまざまな特長を持っていましたが、一益は特に柔軟なタイプといえるでしょう。

天正八年(1580年)には織田家の筆頭家老だった佐久間信盛が追放されたこともあり、彼がやっていた仕事が織田家諸将に割り振られます。

一益はそのうち、後北条氏をはじめとした関東・東北の大名たちとの連絡役を受け持つことになりました。

しかしそれが彼を窮地に追いやることに……。

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