滝川一益

滝川一益(江戸時代後期の栗原信充作)/wikipedia

織田家

滝川一益の生涯|織田家の東国侵攻で先陣を担った重臣は秀吉の怒りを買って失脚

2024/09/07

皆様の好きな”戦国武将”は?

そう問われて、多くの方がイメージするのは合戦で華々しく活躍するような、武勇タイプの人物ですよね。

しかし現実に戦国武将は、内政や外交など、政治的な面も強く求められ、武勇よりも別の一面で才能を発揮した人も少なくありません。

特に織田信長の家臣たちは、信長自身がオールマイティなだけに、一芸に秀でているだけでなく、時に万能タイプも好まれました。

今回は、天正14年(1586年)9月9日に亡くなった滝川一益に注目。

「甲賀出身ゆえに忍者では?」という話があるほど、出自に関しては謎の多い人物でした。

同時に、信長亡き後の【清州会議】では、参列を予定していたほど織田家で力を有した存在です。

そこは後述するとして、まずは一益の生まれから見ていきましょう。

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滝川一益は信長よりも9歳上

滝川一益は大永五年(1525年)生まれといわれています。

信長よりも9歳上で、柴田勝家より3歳下という年代です。

※以下は織田信長の関連記事となります

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信長に仕え始める前のことは不明、仕えるようになった時期もはっきりしていません。

甲賀出身らしいということから、「滝川一益は忍者出身」とする向きもあるようですが……さすがにそれはないでしょうね。

ただし、若い頃から鉄砲の名手として知られており、信長の前で射手としての腕を披露して召し抱えられたという説があります。

また『信長公記』の首巻に登場することや、一益の親戚とされる慈徳院という女性が、信長の嫡男・織田信忠の乳母だったとされていることなどから、比較的早い時期に士官したのは間違いなさそうです。

信長公記首巻で初めて一益の名が出てくるのは、信長が催した盆踊り大会のシーンです。

といっても、ここには「滝川一益の家来衆が餓鬼の仮装をした」ということしか書かれていないので、一益本人がどうしていたのかはよくわかりません。

この盆踊りが何年頃のことなのかも、信長公記にははっきりした記載がありません。

しかし【踊りのような無防備になる場で、新参だったであろう一益の家来が複数人参加していた】ことが、信長の滝川一益に対する信頼を示しているのではないでしょうか。

※このときの盆踊りに着目したのが以下の記事となります

仮装パーティで信長はどんな格好?|信長公記第27話

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伊勢侵攻に功あり

滝川一益の名前が史料に頻出するようになるのは、永禄三年(1560年)ごろ。

伊勢や長島の攻略を提案してからです。

信長はこの意見を容れ、滝川一益に攻略の最前線を任せます。

敵を調略したり、城をだまし取ったり。

一益は、さまざまな手段で攻略を進めていきました。こうした手法が【一益忍者説】の根拠となったのかもしれません。

滝川一益は交渉事も得意としており、永禄6年(1563年)には、信長と松平(徳川)家康の間で同盟を結ぶために、連絡役を任されたといわれています。

戦国ファンにはお馴染みの【清洲同盟】です。

ここでも一益が信長からかなり信任されていたことがわかりますね。

永禄10~11年(1567~8年)の織田軍による伊勢攻略では、先鋒の一員となりました。

北畠家の本拠となっていた大河内城を、津田一安と共に受け取り、他に、安濃津城と渋見城の二つも、一益が守備するよう命じられました。

津田一安は信長の親族とされる人で、この頃から滝川一益と連携して事にあたることが多くなっています。

彼も伊勢の支配を受け持ちながら、武田氏相手の交渉を担当していたため、一益とはいろいろと打ち合わせて動いていたのかもしれません。

 

本拠地の喉元を守備したり遠征に出向いたり

元亀元年(1570年)9月の第一次石山合戦。

滝川一益は現地には行ってはいませんが、あながち無関係ともいえません。

なぜなら、この戦いの最中である同年11月、信長の弟・織田信興が小木江城(愛西市)で長島の一向一揆勢に討たれているのです。

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一益は桑名城(桑名市)にとどまり、防衛に備えていました。

このあたりから、滝川一益は

”信長が大きな戦をするときには遠征についていき、そうでないときは尾張や長島の守備”

という動きが基本になっていきます。

というのも1570年から1574年にかけて【長島一向一揆】との争いが熾烈になり、織田家で伊勢方面を担当していた一益はその押さえに置かれたんですね。

伊勢は、当時の織田家本拠地【尾張→美濃】と接する重要な位置にありましたから、非常に大切なところだったのです。

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この難仕事を一益は見事にやってみせました。

特に武田信玄が亡くなってからは織田家の勢いが炸裂する時期でもあり、

・天正元年(1573年) 一乗谷城の戦い

・天正二年(1574年) 長島一向一揆

・天正三年(1575年) 長篠の戦い・越前一向一揆

・天正四年(1576年) 天王寺合戦

・天正五年(1577年) 紀州征伐

・天正九年(1581年) 伊賀攻め

といった主要な戦いが各地で行われ、滝川一益も伊勢の防御ばかりでなく、最前線で奮闘しております。

特に、地元の戦い・長島一向一揆では、九鬼嘉隆らと共に水軍として参戦し、海上から文字通り援護射撃。

この功により、信長から長島城と北伊勢8郡のうち5郡を与えられました。

当時複数の郡を任されていた信長の家臣は、

・柴田勝家(近江中部)

・佐久間信盛(近江南部)

・羽柴秀吉(近江北部)

・明智光秀(近江志賀郡と北山城)

・丹羽長秀(若狭)

・塙直政(南山城)

など、一軍クラスの武将ばかりです。

勝家と信盛は織田家の家老ですから当然として、一益は他の三人とともに、実績と信頼でこの立場を手に入れたのでした。

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【長篠の戦い】においては、鉄砲隊の総指揮をとっていました。

最前線で勇猛に戦うよりも、後方からの射撃で敵の兵力を削いでいくことに長けていた、といえるでしょう。

 

安土城建設では長秀の補佐をして

戦以外の場面でも、たびたび滝川一益の名が登場しています。

例えば、信長と将軍・足利義昭の関係が悪化し、互いに起請文を提出してなんとか事を丸く収めようとしたことがありました。

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この起請文に、一益が織田家の重臣の一人として署名しているのです。

また、天正四年(1576年)に始まった安土城建設では、総奉行・丹羽長秀の下で工事に携わっていました。

特に「蛇石(じゃいし)」という巨大な石を動かした件については、当時の織田家臣たちの連携が記録されています。

この石、信長の甥・津田信澄が最初に担当していたのですが、あまりにも大きすぎて、安土山の上へ運ぶことができなかったのです。

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それを「一益・長秀・秀吉の三人で一万人の人足を指揮し、まる三日かけて動かした」という話が信長公記に書かれています。

安土城・天主跡

ちなみにこの蛇石、本能寺の変の後に安土城が焼失してから、現在に至るまで発見されていません。

推定約10m、約112トンという巨大な石のはずなのですが……。

ナントカ埋蔵金よりは現実味のある話ですし、盗掘に遭うようなものでもないので、いつか見つかるかもしれませんね。

 


第三次信長包囲網

一方、この天正四年という年は、信長の強敵が再び増えてしまった年でもありました。

丹波の波多野秀治が裏切り、これをきっかけとして織田家と一旦は和睦していた石山本願寺も動いています。

当然、信長は激怒して兵を動かし、その一員として滝川一益も参加しました。

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これに対し、越後の上杉謙信が織田家と対立する意向を見せます。

謙信も北陸で一向一揆衆に悩まされていましたが、信長という共通の敵ができたことで、一向一揆の親玉である本願寺と和睦したのでした。

いわゆる第三次信長包囲網です。

※第一次信長包囲網……浅井朝倉を中心に延暦寺や本願寺なども加わって織田家を包囲

※第二次信長包囲網……第一次のメンバーに足利義昭や武田信玄も積極参加して強固な包囲網となるも、信玄死亡により崩壊

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今回の包囲網については、本願寺関連を主敵として見ると勝機がありました。

戦国期の本願寺は

・長島
・越前
・石山(本拠)

の三ヶ所で信長と対立しており、これに周囲の大名が加わった形です。

しかし、すでに長島勢は1574年に滅ぼして他ならぬ一益が伊勢長島を制圧しておりましたし、他の領地にも信長の家臣で動ける者たちがおりました。

一益のように遊撃部隊として戦地へ赴ける武将もおります。

 

第二次木津川口の戦い

滝川一益は北陸から近畿まで、広い範囲の戦場に出向き、天正六年(1578年)11月には、再び九鬼嘉隆とタッグを組んで【第二次木津川口の戦い】に臨みました。

石山本願寺の水域を守る毛利水軍との戦いです。

実は、天正四年(1576年)7月、すでに【第一次木津川口の戦い】が行われ、九鬼嘉隆は毛利水軍相手に完敗しておりました。

毛利水軍の使った”焙烙火矢”という、手榴弾のような武器にこっぴどくやられてしまったのです。

陶器の中に火薬をつけて敵に投げるというもので、木造の舟ではひとたまりもありませんでした。

そこで信長は嘉隆と一益に新たな舟の建造を命じ、リベンジを挑ませたというわけです。

このときの舟が俗に”鉄甲船”と呼ばれているものですが、詳しいことはわかっていません。

信長公記では

「嘉隆に大船六艘、一益に白い大船を一艘仕立てさせた」

とだけ書かれています。

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毛利水軍は第二次木津川口海戦でも焙烙火矢を用いていたとされるため、嘉隆や一益の舟には、何らかの工夫がされていたことは間違いなさそうです。

いずれにせよ、このときは織田方の勝利となりました。

また、この戦と並行して起きていた荒木村重の謀反、それを始末するための有岡城の戦いにも、一益は参加しています。

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ここでは攻め手の主力として戦う一方で、城方の将を説得して寝返らせるなど、様々な功績を上げています。

戦場におけるこういったある種の器用さは、

「進むも滝川、引くも滝川」

と評される所以でもあります。

信長の家臣たちはそれぞれ、一点特化タイプや文武両道タイプなど、さまざまな特長を持っていましたが、一益は特に柔軟なタイプといえるでしょう。

天正八年(1580年)には織田家の筆頭家老だった佐久間信盛が追放されたこともあり、彼がやっていた仕事が織田家諸将に割り振られます。

一益はそのうち、後北条氏をはじめとした関東・東北の大名たちとの連絡役を受け持つことになりました。

しかしそれが彼を窮地に追いやることに……。

 


嫡男・信忠に付けたのは信頼されていたから

こうして実績と信頼を積み重ねてきた滝川一益。

信長は次世代でも、彼を重用しようとしていたフシがあります。

天正十年(1582年)の【甲州征伐】では、本隊である織田信忠軍の一員として参加しているからです。信忠の家老・河尻秀隆と共に、軍監を務めています。

このとき、信長は行軍中の一益に

「信忠はまだ若く、血気にはやりがちなので、うまく制御するように」

という手紙を出していました。

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実際は信忠の思い切った進軍により、信長が甲斐へ到着する前に武田家攻略が完了するほどでしたので、これは杞憂だったともいえます。

一益や秀隆から信忠に何かを献言したという話もないので、問題なく事が進んだのでしょう。

もちろん一益も、森長可らと共に、攻略戦の主力として働いています。

武田勝頼を追い詰め、天目山で自害に追い込みました。

この功績により、信長から上野国と信濃国佐久・小県の二郡を与えられ、厩橋城主となっています。

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所領ではなく茶器を所望

このとき、

”滝川一益は領地よりも、茶器の「珠光小茄子」を所望したが叶わなかった”

という有名なエピソードがあります。

「茄子」とは、全体的に丸みを帯びているタイプの茶入のことで、多くの茶人に愛された茶器です。

珠光小茄子については、他の特徴を示す資料や絵、はたまた来歴の記録が残っておらず、それらについては推測するしかありません。

名前からすると、おそらくは室町時代の茶人・村田珠光(1423~1502)の所有物だったと思われます。当時茶の道を愛していた者ならば、滝川一益ならずともほしくなるのはごく自然といえるでしょう。

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その代わり……なのかどうかはわかりませんが、信長は一益へ他にも褒美を与えています。

名馬「海老鹿毛」と短刀を褒美として与えたそうです。

海老鹿毛のほうはこれまたどんな馬だったのか不明なのですが、日本の伝統色として「葡萄色(えびいろ)」という色があります。

伊勢海老の甲羅の色に近いとされる、暗めの赤紫色ですね。

葡萄(ぶどう)の色にも近いことから、字面が混同されるようになったとか。

この色がもう少し茶色みを帯びると「海老茶」という色になります。

馬の体が紫がかっていた……というのもなかなか考えにくいですし、「鹿毛」=一番一般的な毛色の名もついているからには、海老茶に近い感じの色をした馬だったと考えるのが妥当でしょうか。

もっと黒ければ「黒鹿毛」や「青鹿毛」、「青毛」など、別の毛色名がありますし。

他にも、一益は古備前派の名刀も与えられていました。

現在は静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区)に所蔵されている

「古備前高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵」

という刀です。

「こびぜんたかつなのたち・つけたり・しゅぬりうちがたなこしらえ」と読みます。

「古備前派の刀工・高綱作の太刀で、朱塗りの鞘がついていますよ」という意味ですね。

 


北条、佐竹に伊達、蘆名とも通じ、そして本能寺で

国宝級の茶器――という望み通りの褒美は得られなかったものの、滝川一益はその後も精力的に働きました。

まず上野周辺の国人たちについては、今までの領地を安堵(保証)することを告げています。

すると、国人たちの多くが人質を差し出し、一益や織田家への従属を申し出てきたそうです。もちろん、関東の武士全員が従ったわけではありませんが。

また、後北条氏や佐竹氏・里見氏だけでなく、東北の伊達氏・蘆名氏とも連絡をとっており、織田家が東日本を支配するための下準備に手を付けていた……といえます。

さらに、国人らを厩橋城に集めて能興行を行うなど、地元との融和に務めていたと思われるフシもあります。

このとき、一益は息子たち二人と共に「玉鬘(たまかずら)」を舞ったそうです。

玉鬘とは、源氏物語に出てくる女性の一人。彼女は亡くなった後も、恋の妄執に囚われていた……という、能ではよくあるタイプのお話です。

滝川一益が何を思ってこの曲を選んだのか。少々、興味を惹かれますが、茶の湯といい、これだけあっちこっちで働いていて、よく文化的素養を身につける時間があったものですね。

こうして、その場でできる最善を尽くしてきた一益。

彼の努力は天正10年(1582年)6月2日、【本能寺の変】によって実を結ぶことなく終わってしまいます。

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変について、一益が知ったのは数日後のこと。

記録によって多少の誤差がありますが、6月7~9日あたりだったといわれています。

変の一件を周囲に隠すか。

あるいは堂々と発表するか。

多くの人ならば、前者を選ぶことでしょう。

しかし一益は、あえて周辺の諸将にこのことを知らせ、

「某(それがし)はこれから上方に帰り、信雄公・信孝公をお守りして主君の仇を討たねばならない。

もしこの機に乗じて一益の首を取ろうというなら、遠慮なく来るがいい。

某はこれから北条勢と決戦してでも上方に向かう」

と宣言した……なんて話が、いくつかの書物に出ています。

が、これはさすがに潔すぎるというもの。

小泉城(群馬県大泉町)の主・富岡秀高に対しての6月12日付けの手紙で「別段変わったことはない」と書いています。

おそらくは、日頃の一益の態度が好ましかったからこそ、このような潔い話が作られたのでしょう。

 

命からがら関東甲信越を脱出

むろん、信長が死ぬという一大事をいつまでも隠し通せるものではありません。

滝川一益は織田家の安全圏に戻ろうとします。

案の定、近隣の沼田城は、武田氏の旧臣・藤田信吉に攻められ、さらには後北条軍が上州に侵攻してきたり、周囲の状況は一変。

一筋縄ではいきませんでした。

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藤田信吉については鎮圧できたものの、北条家となればそう簡単にはいきません。

戦闘の結果、滝川軍に500人以上もの犠牲が出ています。

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一益は彼らの供養をした後、上州の人々に別れを告げて宴を開き、この地を離れました。

道中、木曽郡の木曽義昌に通行を拒否されながら、滝川一益が「人質を出そう」と申し出たため、なんとか丸く収まっています。

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そして6月末に清洲で三法師(のちの織田秀信・信長の嫡孫)に挨拶を済ませると、7月1日頃に伊勢に戻ってきました。

不運にも、この間、6月27日に行われた【清州会議】には参加できておりません。

当然ながら、一益の立場は悪くなってしまいます。

武田家旧領を担当していた河尻秀隆が、本能寺の変を知った武田旧臣らによって殺害されていることを考えると、無事に帰れただけでも御の字なので仕方ない話なんですけどね。

これも天運の一つなのでしょう。

ともかく信長の後継者争いで羽柴秀吉に先手を取られると、その後、大徳寺で催された織田信長の葬儀からは閉め出されてしまうという有様。

一益は、織田信孝や柴田勝家と結び、これに対抗しようとします。

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他の重臣たち同様、滝川一益も古くから信長に仕えてきていますから、仇を討ったとはいえ秀吉に出し抜かれたのは、さぞ悔しかったでしょうね。

一時期は、ほぼ同格に扱われていましたし。

しかし、秀吉の勢いはあまりに凄まじいものでした。

 

秀吉に屈服し小牧長久手へ

【賤ヶ岳の戦い】を経て柴田勝家と織田信孝にそれぞれ切腹という処置が下されると、滝川一益はそれから二ヶ月ほど粘って降伏。

最終的に北伊勢五郡の所領を差し出します。

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さらに頭を丸めて出家し、丹羽長秀のいる越前での蟄居を選びました。

清々しいほどの引退ぶりですめ。

しかし、だからといって楽隠居……とはならないのが戦国時代。

その後、秀吉と徳川家康・織田信雄の溝が深まると、一益は秀吉の要請に応じて戦場へ復帰せざるを得なくなります。

そのため、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いにはじまる一連の戦に、秀吉側で参加しています。

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蒲生氏郷・堀秀政らと共に、勝手知ったる伊勢方面へ出陣し、かつてタッグを組んでいた九鬼嘉隆などを内応させると、その後いくつかの城を奪い、しかし家康・信雄の主力軍に奪い返され、逆に追い込まれます。

一益はここでも半月以上粘りまがら、最終的には降伏しています。

秀吉は一益らの救援を考えていたようですが、間に合いませんでした。

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その後、秀吉は織田信雄と電光石火の和睦を結び、拳を振り上げた家康は行き場をなくして失速。

滝川一益に対して秀吉は、次男に一時家督を継がせて1万2000石を、一益本人にも隠居料として、3000石を与えます。

以前「一益に1万5000石を与える」という約束をしていたため、敗戦の責任を加味してこのような処分にしたようです。

なお、一益と共に家康らと戦った長男・滝川一忠は追放処分となり、その後はどこにも仕えず生涯を終えたとか……。

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子孫は血脈を保っている

当時、滝川一益は60歳でした。

還暦でもあり、戦国時代にしてはかなり長生きの部類です。

秀吉は天文六年(1537年)生まれなので、一益のほうが一回り以上年上ということになります。

以前にも自ら出家した殊勝さと、老い先短い身であることを考慮して、秀吉は滝川一益を厳罰にはしなかったのでしょうか。

その後は信長の時代と同じく、後北条氏や佐竹氏など、関東の大名との連絡役を担当していました。

また、秀吉を招いて茶会を催したこともあったようです。

亡くなったのは、天正十四年(1586年)9月9日。享年62でした。

信長時代からの武将としては、比較的穏やかに最期を迎えたほうでしょう。

一益の子孫は、それぞれ違った形で存続しています。

長男・一忠は前述の通りで、その孫(一益のひ孫)が後に江戸幕府に召し出されて旗本となり、武家に復帰しております。

次男・一時の系統は、滝川本家として存続。

三男・辰政はさまざまな大名に仕えましたが、最終的に池田輝政のもとに落ち着き、その子孫は岡山藩士となりました。

四男・知ト斎の子孫たちも、岡山・鳥取の池田氏に仕えています。

これは、輝政の祖父・恒利が元々滝川家から養子入りしたこと、岡山・鳥取両藩の池田氏はいずれもその子孫であることなどが影響したと思われます。

また、彼の子孫は医師の家として存続しており、現在も末裔の方がクリニックを開いておられるようです。ネット上で話題になった滝川クリステルさんは関係ないでしょう。

江戸時代以降、滝川家の人々が歴史の大舞台に出るということはありません。

それでも子孫がきっちり存続しているということを考えれば、一益も十二分に”勝ち組”ではないでしょうか。

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
滝川一益/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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