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【滝川一益】
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命からがら関東甲信越を脱出
むろん、信長が死ぬという一大事をいつまでも隠し通せるものではありません。
滝川一益は織田家の安全圏に戻ろうとします。
案の定、近隣の沼田城は、武田氏の旧臣・藤田信吉に攻められ、さらには後北条軍が上州に侵攻してきたり、周囲の状況は一変。
一筋縄ではいきませんでした。
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藤田信吉については鎮圧できたものの、北条家となればそう簡単にはいきません。
戦闘の結果、滝川軍に500人以上もの犠牲が出ています。
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一益は彼らの供養をした後、上州の人々に別れを告げて宴を開き、この地を離れました。
道中、木曽郡の木曽義昌に通行を拒否されながら、滝川一益が「人質を出そう」と申し出たため、なんとか丸く収まっています。
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そして6月末に清洲で三法師(のちの織田秀信・信長の嫡孫)に挨拶を済ませると、7月1日頃に伊勢に戻ってきました。
不運にも、この間、6月27日に行われた【清州会議】には参加できておりません。
当然ながら、一益の立場は悪くなってしまいます。
武田家旧領を担当していた河尻秀隆が、本能寺の変を知った武田旧臣らによって殺害されていることを考えると、無事に帰れただけでも御の字なので仕方ない話なんですけどね。
これも天運の一つなのでしょう。
ともかく信長の後継者争いで羽柴秀吉に先手を取られると、その後、大徳寺で催された織田信長の葬儀からは閉め出されてしまうという有様。
一益は、織田信孝や柴田勝家と結び、これに対抗しようとします。
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他の重臣たち同様、滝川一益も古くから信長に仕えてきていますから、仇を討ったとはいえ秀吉に出し抜かれたのは、さぞ悔しかったでしょうね。
一時期は、ほぼ同格に扱われていましたし。
しかし、秀吉の勢いはあまりに凄まじいものでした。
秀吉に屈服し小牧長久手へ
【賤ヶ岳の戦い】を経て柴田勝家と織田信孝にそれぞれ切腹という処置が下されると、滝川一益はそれから二ヶ月ほど粘って降伏。
最終的に北伊勢五郡の所領を差し出します。
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さらに頭を丸めて出家し、丹羽長秀のいる越前での蟄居を選びました。
清々しいほどの引退ぶりですめ。
しかし、だからといって楽隠居……とはならないのが戦国時代。
その後、秀吉と徳川家康・織田信雄の溝が深まると、一益は秀吉の要請に応じて戦場へ復帰せざるを得なくなります。
そのため、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いにはじまる一連の戦に、秀吉側で参加しています。
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蒲生氏郷・堀秀政らと共に、勝手知ったる伊勢方面へ出陣し、かつてタッグを組んでいた九鬼嘉隆などを内応させると、その後いくつかの城を奪い、しかし家康・信雄の主力軍に奪い返され、逆に追い込まれます。
一益はここでも半月以上粘りまがら、最終的には降伏しています。
秀吉は一益らの救援を考えていたようですが、間に合いませんでした。
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その後、秀吉は織田信雄と電光石火の和睦を結び、拳を振り上げた家康は行き場をなくして失速。
滝川一益に対して秀吉は、次男に一時家督を継がせて1万2000石を、一益本人にも隠居料として、3000石を与えます。
以前「一益に1万5000石を与える」という約束をしていたため、敗戦の責任を加味してこのような処分にしたようです。
なお、一益と共に家康らと戦った長男・滝川一忠は追放処分となり、その後はどこにも仕えず生涯を終えたとか……。
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子孫は血脈を保っている
当時、滝川一益は60歳でした。
還暦でもあり、戦国時代にしてはかなり長生きの部類です。
秀吉は天文六年(1537年)生まれなので、一益のほうが一回り以上年上ということになります。
以前にも自ら出家した殊勝さと、老い先短い身であることを考慮して、秀吉は滝川一益を厳罰にはしなかったのでしょうか。
その後は信長の時代と同じく、後北条氏や佐竹氏など、関東の大名との連絡役を担当していました。
また、秀吉を招いて茶会を催したこともあったようです。
亡くなったのは、天正十四年(1586年)9月9日。享年62でした。
信長時代からの武将としては、比較的穏やかに最期を迎えたほうでしょう。
一益の子孫は、それぞれ違った形で存続しています。
長男・一忠は前述の通りで、その孫(一益のひ孫)が後に江戸幕府に召し出されて旗本となり、武家に復帰しております。
次男・一時の系統は、滝川本家として存続。
三男・辰政はさまざまな大名に仕えましたが、最終的に池田輝政のもとに落ち着き、その子孫は岡山藩士となりました。
四男・知ト斎の子孫たちも、岡山・鳥取の池田氏に仕えています。
これは、輝政の祖父・恒利が元々滝川家から養子入りしたこと、岡山・鳥取両藩の池田氏はいずれもその子孫であることなどが影響したと思われます。
また、彼の子孫は医師の家として存続しており、現在も末裔の方がクリニックを開いておられるようです。ネット上で話題になった滝川クリステルさんは関係ないでしょう。
江戸時代以降、滝川家の人々が歴史の大舞台に出るということはありません。
それでも子孫がきっちり存続しているということを考えれば、一益も十二分に”勝ち組”ではないでしょうか。
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長月 七紀・記
小久ヒロ・絵
【参考】
国史大辞典
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滝川一益/wikipedia