毛利新介と服部小平太

桶狭間古戦場公園にある信長と義元の像

織田家

桶狭間で義元を討ち取った毛利新介と服部小平太はその後どうなった?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
毛利新介と服部小平太
をクリックお願いします。

 


城持ちにまでなったが秀次事件で切腹~服部小平太

では服部小平太のほうは?

というと、もともとは津島の出身とされ、新介と同じく信長の馬廻衆でした。

桶狭間の後、目立った記録が残されていないのも新介と同様。

ただし、小平太は本能寺の変後も生きており、豊臣秀吉が政権を手にしてから豊臣家に仕え(秀吉のもとで黃母衣衆となる)、派手ではないものの着実に武功を積み重ねて城を与えられています。

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

小牧・長久手の戦いでは、撤退戦で戦功を挙げたともあります。

小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いは秀吉vs家康の総力戦!一体どんな合戦だった?

続きを見る

北条氏政北条氏直親子と対峙した小田原征伐にも参戦しており、その後、松坂城主石高3万5000石にまで加増されていますので、かなりの出世を果たしておりますね。

文禄・慶長の役でも渡海しておりました。

小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどんだけ強いのか

続きを見る

 


秀次事件の連座で……

しかし、豊臣秀次に付けられたことが運の尽きでした。

謎の多い秀次事件の連座(とばっちり)を受けて、切腹することになってしまったのです。

豊臣秀次
豊臣秀次(秀吉の甥)はなぜ自害へ追い込まれ殺生関白と呼ばれたか?

続きを見る

上杉景勝に預けられた上での切腹ですから、武士としての体面は保たせてもらっているのがまだ救いでしょうか。

息子は別の家に養子に入り、紀州徳川家(徳川頼宣とか徳川吉宗の家)に仕えたそうですので、末代まで汚名を着せられたというわけではないようです。

本能寺の変が起きず、信長や信忠が生きていれば、二人とももう少し活躍する場があったかもしれません。


あわせて読みたい関連記事

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然か『信長公記』にはどう書かれてる?

続きを見る

今川義元
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは

続きを見る

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

佐々成政
信長の側近から戦国大名になった佐々成政~秀吉に潰された生涯53年

続きを見る

前田利家
前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!

続きを見る

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

TOPページへ


 



-織田家
-,

×