永禄三年(1560年)5月19日、戦国史でもとりわけ有名な【桶狭間の戦い】が起きました。
ご存知「織田信長が今川義元を討ち取り、歴史の表舞台に出た」ことで知られますが、実際に義元の首を取ったのは当然ながら織田信長ではありません。
では誰か?
大河ドラマ『麒麟がくる』では今井翼さんが毛利新介を演じて話題になりましたが、この毛利新介と服部小平太の二人、一般的にはあまり有名な武将ではありませんよね。
気になるのは、桶狭間の合戦後、二人はどんな活躍をしたのか? あるいは何も活躍しなかったのか?
二人の生涯を追ってみましょう。
※以下は桶狭間の戦い関連記事となります
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桶狭間で活躍した無名だった二人
まず義元に一番槍をつけたのが服部小平太です。
最前線へ出向いていって、真っ先に突撃する「一番槍」は、この戦に限らず非常に名誉なこととされます。
なにせ敵の中へ飛び込んでいくのですから、最初に殺されてしまう可能性も高い。
今川義元は公家趣味が過ぎると揶揄されることもありますが、なんせ「海道一の弓取り(東海道で一番立派な武士)」とされるぐらいの武人ですから、織田軍に襲いかかられたときも単にやられて終わりではなく、小平太の膝を斬ったとか。
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そこへ助太刀に入ったのが毛利新介(毛利良勝とも)であり、実際に義元の首を取った人物とされます。
イヤな見方をすれば手柄を横取りしたともいえますが、その後トラブルになっていないところをみると当人同士にそういう意識はなかったようです。
当たり前ですが最後の最後まで義元は激しく抵抗したらしく、新介の指を食いちぎったともいわれています。イタタタ……。
毛利新介は本能寺の変で散る
二人とも桶狭間の後は特に武功を挙げることはできませんでした。
ただし新介は、織田信長お気に入り隊こと黒母衣衆(くろほろしゅう)の一人として仕え続け、目をかけられてはいたようです。
役立たずだったら信長が放り出していたでしょうからね。
本能寺の変では織田信忠と共に最期まで戦って討死しておりますから(信長公記にも記載アリ)、常日頃から「信用できる」と思われていたのでしょう。
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ちなみに「母衣」というのは流れ矢などを防ぐため、背中につける布のことです。
馬に乗って駆けると膨らむので結構マヌk……もとい、目立ちます。
目立つ=狙われやすくなるのであまり意味がないかのように見えますが、流れ矢は戦場での死因ワースト3に入りますので、きちんと効果はありました。背面エアバッグみたいなもんですね。
また、目立つのを利用して「俺らこんなに目立っちゃってるけどつえーから平気なんだぜヒャッハー!!」(※イメージ)と喧伝する効果もありました。
信長は黒母衣衆と赤母衣衆という隊を作っており、黒母衣衆には佐々成政、赤母衣衆には前田利家というビッグネームも所属していましたので、何となく聞き覚えのある方もいるかもしれません。
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その他、母衣は伝令の目印として用いられることもありました。
当時の伝令は現代で言えば速達や電報にあたりますから、いち早く味方の報を伝えなくてはいけませんが、混乱しがちな戦場では誰が本当の伝令なのか即座に見分けることは不可能です。
あらかじめ「このド派手な母衣のヤツは伝令だから、先に通すように!」というように伝達しておけば、遠目からもわかり、主の元までスムーズにたどりつけるというわけです。
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