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【毛利新介と服部小平太】
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城持ちにまでなったが秀次事件で切腹~服部小平太
では服部小平太のほうは?
というと、もともとは津島の出身とされ、新介と同じく信長の馬廻衆でした。
桶狭間の後、目立った記録が残されていないのも新介と同様。
ただし、小平太は本能寺の変後も生きており、豊臣秀吉が政権を手にしてから豊臣家に仕え(秀吉のもとで黃母衣衆となる)、派手ではないものの着実に武功を積み重ねて城を与えられています。
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小牧・長久手の戦いでは、撤退戦で戦功を挙げたともあります。
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北条氏政・北条氏直親子と対峙した小田原征伐にも参戦しており、その後、松坂城主石高3万5000石にまで加増されていますので、かなりの出世を果たしておりますね。
文禄・慶長の役でも渡海しておりました。
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秀次事件の連座で……
しかし、豊臣秀次に付けられたことが運の尽きでした。
謎の多い秀次事件の連座(とばっちり)を受けて、切腹することになってしまったのです。
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上杉景勝に預けられた上での切腹ですから、武士としての体面は保たせてもらっているのがまだ救いでしょうか。
息子は別の家に養子に入り、紀州徳川家(徳川頼宣とか徳川吉宗の家)に仕えたそうですので、末代まで汚名を着せられたというわけではないようです。
本能寺の変が起きず、信長や信忠が生きていれば、二人とももう少し活躍する場があったかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)