京都御馬揃え

織田信長/wikipediaより引用

織田家

信長の家臣たちが勢揃い「京都御馬揃え」は衣装もド派手な軍事パレードだった

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武田家に信濃から追い出された小笠原の姿も

一門衆の後に続いたのが公家の人々でした。

上記の近衛前久は准三后(じゅさんごう・皇族以外で皇族と同等とする身分)を認められていましたので、公家の先頭でやってきます。

信長と個人的な親交もあり、武田攻略にも随行したそうですから、公家にしてはかなり武道にも通じた人だったんでしょうね。

その後は概ね官位順に並び、最後に小笠原長時という武士がいます。

もともと信濃(だいたい長野県)の大名だったのですが、武田信玄(武田晴信)に追い出された後は近畿の親戚筋を頼り、この頃は信長の庇護を受けていました。

小笠原氏は代々武家のしきたりを伝える役を担っていましたので、その性格から公家扱いにしたのかもしれません。

次に、信長お気に入りの騎馬兵や小姓たちを挟んで、越前衆というグループが続きます。

書いて字の如く、柴田勝家をはじめとした越前(北陸~新潟)方面の攻略軍に割り当てられていた武将たちです。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用

攻略の合間を縫って上洛・参加したそうですから、この馬揃えが織田家の中でかなり重視されていたことがわかります。

ちなみに後々柴田勝家と敵対する羽柴(豊臣)秀吉は、中国地方攻略を進めていて不参加でした。残念。

その後はこれまた信長お気に入りの力自慢が続きます。

相撲大会でスカウトした」人とかですね。

力士ですからそうとう身体も大きかったでしょうし、よく馬が耐えたものです。

力士の次は坊主衆(×ハゲ ○ブレーン)だったらしいので、体格差でより大きく見えたでしょうね。

最後はもちろん、我らが信長サン!

すでに数多の名馬を先行させていて、自分は「大黒(おおぐろ)」という馬に乗っていました。

天皇や上皇に用いられる中国(あるいはインド)製の効果な唐織物で衣装を調え、細川忠興が京都で探しだした小袖を着用。

とにかく綺羅びやかな出で立ちで、沿道の人々の度肝を抜いたようです。

織田信長/wikipediaより引用

 


アノ人に圧力をかける狙いもあったのでは?

さてここで、ワタクシめのトンデモ仮説をご披見いただければと思います。

この馬揃えの【目的】についてです。

馬揃えは「正親町天皇へ譲位を迫るための脅しだった」なんて話もありますが、信長の皇位簒奪説については多方面で否定されております。

それよりもっと脅迫できそうな人物がいませんか? それは……。

足利義昭/wikipediaより引用

そうです、ここより遡ること八年前に京都を追い出された足利義昭です。

元亀4年(1573年)【槇島城の戦い】に敗れた義昭は京を離れ、実質的に室町幕府は滅んでおりました。

しかし、未だ征夷大将軍の位にあり、近畿以西では義昭派の大名も少なからず存在していたといいます。

そして、義昭は兄である剣豪将軍・足利義輝に勝るとも劣らない筆マメであり、京都を出る前から方々の大名に手紙を送り、信長包囲網を敷かせていたのは割と有名な話です。

もし、この時点でも義昭が信長との対決を諦めておらず、あちこちの大名に働きかけて、打倒織田家の動きを見せていたとしたらどうでしょう?

信長は、この頃には全国を制覇するつもりだったでしょう。

絵・富永商太

そんな場面で、将軍義昭の名の下に「打倒信長!」とされたら、さすがに厄介。

そこでこの馬揃えによって義昭を精神的な面から威圧し「オメーの席もうねーから!!」と諦めさせる意味があったのでは……?

中国地方の攻略は、相手が強大な毛利です。

色々とプレッシャーをかける必要性も痛感していたに違いありません。

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