大友義統

大友義統(落合芳幾作)/wikipediaより引用

大友家

大友義統は愚将か凡将か?秀吉に救われた名門大友家を結局滅亡させる

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戸次川の戦い

宗麟はさっそく大坂へ上って、豊臣政権との関係構築に全力を傾けました。

一方、九州制覇の悲願をあと一歩のところで妨害された島津は反発心を隠そうとせず、

「関白を名乗っている成り上がりサルの言うことなど構うものか」

として引き続き大友家攻略を継続します。

義統と宗麟は、圧倒的劣勢の中で防衛戦を構え、ただひたすら秀吉の援軍を待つ、苦しい戦いを強いられました。

島津に攻められた岩屋城では、高橋紹運を中心とする城兵が戦史に残るほどの激闘を演じ、最終的に壊滅しながら一筋縄での攻略を許しません。

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ギリギリのところで粘り強く戦っていた大友軍。

そのもとに秀吉配下の仙石秀久や四国の長宗我部元親ら援軍が到着したのは天正14年(1587年)冬のことです。

どうにか最大の危機を回避した……と思いきや、事態は思わぬ方向へ進んでゆきます。

秀吉から「勝手に島津と合戦をするな」と命令されていたはずの仙石秀久が周囲の制止も振り払い島津軍へ攻撃を仕掛け、その結果、屈辱的な大敗へと追い込まれてしまうのです。

戸次川の戦い】と呼ばれる戦いですね。

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この大失態に怒り狂った秀吉は、秀久の領地を召し上げました。

大友義統もこの時には責任を問われませんでしたが、後年の厳しい処置に直結していたと考えられています。

ともかく秀吉の軍に矢を向けた島津は、大友を相手にしている場合じゃありません。

黒田・毛利ら中国勢が大軍を率いて九州に乗り込んでくると、彼らに遅れる形で総大将の秀吉本人も渡海。

島津は、全国有数の大名に囲まれてしまいます。

「戦上手」で知られた島津軍とて、もはやここまで。

天正15年(1587年)に島津義久が降伏し、戦は終結と相成りました。

大友家は豊臣政権に組み込まれることで存続が決まり、滅亡という最大の危機を乗り越えた……かに思われました。

 

度重なる失態で改易処分

豊臣政権下で生き残ることができた大友義統は、豊後一国に加えて豊前の一部を与えられました。

島津に滅ぼされかけていた状況を考えると、あまりにも幸運な処遇でしょう。

しかし、天正15年(1587年)に父の宗麟が亡くなると、義統はいくつもの失態を重ねるようになっていきます。

まず、肥後国で発生した一揆に際し、国人衆の一角をなしていた阿蘇惟光の赦免を申し出て、成敗する気マンマンだった秀吉の気分を害します。

具体的な処分には至ってませんが、戸次川における失態と重ねて秀吉の心証を悪化させたことでしょう。

そして文禄元年(1592年)、義統は決定的なポカをやらかしてしまいます。

【文禄の役】において敵地で危機に陥った西行長を救わず、敵前逃亡と判断されかねない兵の引き方をしてしまったのです。

知らせを耳にした秀吉は「豊後の臆病者へ」と題して、次のように容赦のない言葉を並べました。

「敵地でのあまりに臆病な振る舞いは、私が幼少のころから耳にしたことがないほどだ」

「本来ならば一族もろとも成敗したいところだが、国の没収だけで済ませてやる」

「ぶっちゃけ、九州征伐の時から成敗してやろうと思っていた」

かくして領地を召し上げられ、戦国大名としての大友家は滅亡。

毛利輝元に預けられた義統の家臣らは他家に離散していき、やがて佐竹義宣のもとへ身柄を寄せるなど、諸家を転々とします。

 

関ヶ原の戦い

領国を奪われ、失意の日々の大友義統に、大きな機会が訪れます。

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなり、処分が解かれると、西軍への誘いに乗ることにしたのです。

ご存知、関ヶ原の戦いです。

一説によれば、戦勝の暁には「豊後一国の恩賞」が保証されていたと言いますが、彼の息子・大友義乗は家康に従っていて、東軍に属する選択肢もあったはず。

あるいは、どちらが勝ってもいいように、あえて親子で東西に分かれたのかもしれません。

義統は本戦に参加せず、九州で見せ場を作りました。

【石垣原の戦い】で黒田軍と互角に渡り合うばかりか、家臣・吉弘統幸の活躍もあって一時的に優勢な局面を作ったともされます。

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しかし、見せ場もそこまで。

数度の合戦を経て兵力が底をつくと、義統は敗北を認めて開城しました。

戦後、義統は西軍に属したとして流刑に処されてしまい、そのまま名誉を回復することなく慶長10年(1605年)に亡くなっています。享年48。

大友義統の能力や人柄については、再評価することが難しいほどに残念な証言が残されています。

何か格別な新史料でも発見されない限り、評価が変わることはないでしょう。

ただし、誤解があることも確か。

彼が家督を継承する以前から大友家は大量の問題を抱えており、彼の失態についても、実権を握っていたのは父・宗麟だったという例もあります。

再評価は難しい。されど実態以上に暗君とされている。

それが実態ではないでしょうか。

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文:とーじん

【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
外山幹夫『大友宗麟』(→amazon
竹本弘文『大友宗麟』(→link

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