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【吉岡妙林尼】
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十六度にわたる攻撃を受けても大丈夫
男手の少ない城だと侮ったのでしょう。彼らは力攻めに攻めようとしました。
そして、城方のしかけた落とし穴や、通ると音が鳴る「鳴子」という仕掛けに翻弄されます。
同時に鉄砲を撃ちかけられ、一筋縄ではいきません。
それでもやはり島津軍は城方をナメていたのでしょう。
攻撃を十六回仕掛けても、城はびくともしなかったといいます。カーチャンすごすぎ。
ただし、このときやってきていたのは島津軍の本隊ではなく、いわば別働隊でした。
そのため本隊から「早く合流しろ(#^ω^)」というお達しも来ており、島津軍はますます焦ります。
このままでは消耗する一方……と考えた島津方のお偉いさんは、「そうだ、和睦しよう」と決意しました。
和気あいあいとした飲み会で島津は(・∀・)ニヤニヤ
一方、妙林尼以下の鶴崎城内でも、そろそろ食料が尽きそうでした。
和睦を申し出たほうがいいのでは……と考え始めた頃です。
そこに攻めてきた島津のほうから「和睦してください」という連絡が来たので、願ったり叶ったりというタイミング。
内容は「城を渡す代わりに全員の命を助ける」というもので、まぁよくあるものです。一番公平ともいえますね。
さらに妙林尼たちは島津軍を手厚く酒食でもてなし、両軍わきあいあいとした宴になったとか。
陣羽織を着て長刀をぶん回していた女丈夫の妙林尼が一転、美しく着飾っていたため、薩摩の将たちも完全に気を許すようになります。
現代人の感覚からすると違和感ありそうですが、当時、特に島津家には「戦の間は敵だが、それ以外は別」といった風土があったようで。
前述の戸次川の戦いでも、”長宗我部信親(豊臣方)の戦死を聞いて島津のお偉いさんが涙した”という話があります。
「いやいや殺したのアンタらやろ」とツッコミたくなるところですが、こういうのはまさに戦国の気風であり、薩摩隼人ですね。
しかしクライマックスはここからです。
それは天正15年(1587年)3月のことでした。
豊臣秀吉が九州征伐に立ち上がり、軍を興すという一報が届けられます。
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ここで妙林尼はもう一度、島津の将相手に宴を開き「私はもう島津の人間です。大友には帰れません。皆と一緒に薩摩へ連れて行ってもらえませんか」と言い出しました。
いろいろフラグの予感がしますよね……(゚A゚;)ゴクリ。
しかし島津軍では都合のいいようしか感じ取れなかったようで、申し出をあっさり受けてしまうのです。
やっぱり女性だと思ってナメていたのでしょう。
そしてしこたま酒を飲んだ島津軍は、翌日二日酔いを残したまま出立しました。それが罠とも知らず……。
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