「今の女性は強いからねぇ」みたいな言葉を耳にしますが、歴史を見ていると「昔の女性もか弱いばかりではない」ことがわかります。
鎌倉時代には女性の領主が認められていたり。
その他の時代でも当主の母親の意見が尊重されるなど、女性が権利を有していた時代も多いものです。
ただ、さすがに戦をやってのける人は少ない――ということで本日は九州の女丈夫を見てみたい。
天正十五年(1587年)3月8日は、吉岡妙林尼(よしおか みょうりんに)という女性が鶴崎城を奪回した日です。
「尼」とついている通り出家した女性、つまりマダム。
さらに「奪回」ですので、一度奪われた城を取り戻したということにもなります。まぁ、彼女だけの力ではないのですが、いずれにせよハンパない。
早速、見て参りましょう。
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旦那は九州の関ヶ原・耳川で戦死
この時代の女性によくあることで、本名や生没年などははっきりわかっていません。
一説には「林家の娘で、名前は”林(りん)”だった」とも言われています。字面が林林になってしまうのでそれはどうよ? という気もしますね。
出家後の名に本名の一字をつけるというのもなくはないですが、それなら「妙(たえ)」さんのほうがありそうな気がします。
似た例として、「毛利元就の正室・妙玖(みょうきゅう)の本名は妙、あるいは玉(たま)、久(ひさ)のどれかではないか?」という説もありますね。
話を戻しましょう。
いずれにせよ妙林尼が吉岡家という大友宗麟の家臣に嫁いでいたことは間違いありません。
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そしてその旦那といえば【耳川の戦い】であえなく戦死。
彼女は夫の菩提を弔うために髪を落とし、尼になったのです。
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そんな事情を鑑みてくれるのは家中だけで、敵にとってはむしろ絶好のチャンスでした。
敵とは、九州統一を目指す島津家です。
この時期は、既に豊臣秀吉が動いており、天正14年(1586年)【戸次川の戦い】でぶつかり合った後、島津軍は妙林尼のいる鶴崎城へもやってきました。
戸次川では四国の名だたる名将らを蹴散らしてきていますから、島津軍の士気はうなぎのぼり。
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対して鶴崎城はといえば……。
父に代わって当主になった妙林尼の息子は大友宗麟のところに行っており、ついでに若い兵も連れて行ってしまっていたため、城の中どころか周辺一帯まで女子供と老人しかいないような有様でした。
周辺の農民に畳や板を持ち寄らせて砦を作り…
普通の武家の女性であれば、
「命もしくはわが身と引き換えに、城兵と民の命をお助けください」
と頼み込むところだったかもしれません。
しかし、妙林尼はそうはしませんでした。
戦国の習いとはいえ、夫の仇同然の連中に好きにさせてなるものか! と思ったに違いありません。
彼女はただちに篭城を決意。
周辺の農民に畳や板を持ち寄らせて砦を作り、さらに鉄砲など武器の扱いを教えて即席の兵隊を組み上げます。
この思い切りと手際の良さからして、やはり元々武家の出身でしょうね。カーチャンかっこいい。
もしかすると、息子も「うちのカーチャンなら何とかしてくれる」と思ったからこそ城を留守にしたのかもしれません。
ほどなくして島津軍がやってきました。
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