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【吉岡妙林尼】
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二日酔いの島津軍に奇襲を仕掛け多くの首を討ち取る!
妙林尼は「支度がありますので、後ほど合流します」ということで、後から城を出る予定になっていたそうです。
「女の身支度は大変だし、年寄りも子供もいるから仕方ないな」くらいに思われてたんですかね。いや、さすがにそこまでお人よしでもないかな。
はい、これは妙林尼の計略でした。
いつもより遅く進軍していく島津軍に追いついたが早いか、乙津川(現・大分県大分市)の手前でさんざんに奇襲を仕掛けたのです!
結果、挙げた首の数は63。
この隊を率いていた島津のお偉いさんも胸に矢を受け、それが元で後日亡くなったとか。
グロい話ですけど、老人女子供ばかりで物理的によく首を掻き切れたものですね。そういうコツがあるんでしょうか。
その後、首は宗麟の下に届けられ、秀吉の耳にもこの武勇は伝わりました。
女好きかつ英雄好きの秀吉ですから、その両方を兼ね備えた人物となれば当然会いたがります。
秀吉の好きになんかさせませんことよ
妙林尼は秀吉からの申し出を断り、再び一介の未亡人に戻りました。
既に秀吉の女好きは全国に知れ渡っていたので、妙林尼も警戒したのでしょう。
これについては他の武将の妻のエピソードも多々あります。
たとえば関が原の直前に自害する細川ガラシャは、秀吉と会うときに短刀を忍ばせていって、わざと秀吉の目の前で落としたなんて話もあります。
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口では「失礼しました」なんて言いながら、「私に触れたらどうなるかわかってますよね^^」と脅したわけですね。「コロしてやる」とも「自害してやる」とも取れますが、どっちにしろこええ。
また、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)が京都で人質になってから書いた手紙に「私のことはお気になさらないでください。常に懐刀を携えております」という文章もあります。
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ガラシャと愛姫に付き合いがあったかどうかはわかりません。
が、当時武家の女性達の間では「秀吉に会ったら何をされるかわからないから、最悪の事態を考えておく」というのは常識になっていたのでしょうね。
しかも、これが濡れ衣でもなんでもないのが……(´・ω・`)
その後、妙林尼の足跡については伝わっていません。おそらく穏やかに暮らすことができたのでしょう。
まあ何はともあれ、女性も覚悟を決めておかないと生き残れないのが戦国時代だったということですね。
現代もそうだろって? うーん、難しいですねぇ。
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長月 七紀・記
【参考】
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
国史大辞典
妙林尼/wikipedia