臼杵鑑速

現在は臼杵公園となっている臼杵城跡

大友家

臼杵鑑速~道雪が死を惜しんだ豊後三老~戦国九州で大友を躍進させた手腕が凄い

1575年6月16日(天正3年5月8日)は九州の戦国武将・臼杵鑑速(うすき あきはや)が亡くなった日です。

と言っても『いったい誰なんだ?』と思われる方のほうが多いでしょうか。

九州北部から中部にかけて広大な領土を獲得した、大友宗麟の家臣であり、その原動力となった人物――。

立花道雪吉弘鑑理(よしひろ あきただ)と共に「豊州三老」とか「豊後三老」に数えられるほどの武将だったりします。

場所が九州だけに、特に東日本の方には馴染みが薄いかもしれませんが、その功績を知れば、俄然興味は湧いてくるはず。

臼杵鑑速の生涯を振り返ってみましょう。

 


大友氏一族の庶家・臼杵家に生まれる

臼杵鑑速は、大友氏に従う一族・臼杵家に生まれました。

父親は臼杵長景(ながかげ)。

生年は不明です。

もともと臼杵家は、源平合戦期に活躍した緒方惟義の弟・臼杵惟隆(これたか)の子孫として知られる由緒正しい名門でした。

しかし、他ならぬ惟隆が、幕府と不和を起こした源義経を九州へと逃そうとして失脚したとされ、一時は滅びかけてしまい、その名跡を相続したのが大友氏です。

臼杵氏は、この時点から現在の大分県臼杵市に本拠を置いており、ちょうど豊後(現在の大分県)に入国した大友氏にとって都合がよかったのでしょう。

以後の臼杵氏は、大友本家と同じ家紋の使用が許されるほど重用され、家臣としては最高の地位である「同紋衆」の一員として活躍。

その名誉は鎌倉~室町時代を経て、戦国の世に突入してもなお不変で、大友家臣として極めて重要な立場にありました。

 


優れた兄・鑑続の跡を継ぎ

臼杵鑑速には臼杵鑑続(あきつぐ)という兄がいました。

永禄年間(1558年から1570年まで)までは、この兄が臼杵家を取り仕切っていました。

鑑続は、当時最高位の家臣であったことを示す「加伴衆」に列せられ、主に外交関係で力を発揮したと言われています。

一方、大友氏は?

九州の大友といえば大友宗麟(義鎮)を思い出す方が多いかもしれませんが、当時はその父・大友義鑑(よしあき)が一族をけん引していました。

義鑑は大宰府の旧領回復をもくろむ少弐資元(しょうに すけもと)という人物を支援。

その結果、資元と敵対していた大内義隆との争いに発展してしまいます。

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どちらも「由緒正しい名家」を自称していたであろう両者は頻繁に合戦を繰り広げ、やがて彼らに名門ならではのしがらみが襲いかかります。

時の将軍・足利義晴より

「是非をさしおき和談せよ(良いとか悪いとかどうでもいいから仲直りしろ!)」

という知らせが届き、権威を重んじる彼らは従わざるを得なくなったのです。

このときの和睦会談に、大友方として参加したのが鑑速の兄である臼杵鑑続でした。

鑑続だけの手柄ではありませんが最終的に交渉をうまくまとめ、外交で爪痕を残すと、この後には同じく大内氏との養子縁組でも手腕を発揮。

臼杵家が大友家中で重要な役割を担っていたことがわかります。

鑑続の名声は堅実に確立されてゆきましたが、永禄元年(1558年)ごろに弟の鑑速へ家督を譲り渡します。

そして、いよいよ鑑速の時代が到来すると、兄以上の活躍をするようになるのです。

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