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【臼杵鑑速】
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豊州三老の一角に成長
時代は少し遡って天文19年(1550年)。
これまで大友家をまとめてきた大友義鑑(よしあき)が家臣二名の不興を買い、彼らの手によって切りつけられ重傷を負うという大事件が発生しました。
戦国ファンには割と知られた【大友二階崩れの変】です。
この事件で妻子をほとんど殺害された義鑑も、事件発生の二日後に死亡。
死の間際に十一か条の遺言を残していますが、ここで「重要文書等の保管係」として指名されたのが鑑速でした。
前述のように、この時点で鑑速はまだ家督を継承しておらず、兄が就いていた加判衆の立場にはありません。
それでも重要な役割に任ぜられたことから、すでに大友本家から厚い信頼を寄せられていたことがわかります。
そして義鑑の跡を継いだのが、あの大友宗麟です。
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永禄年間に入ると、宗麟は九州北部から中部にかけて躍進。
一時は九州と中国地方の八か国で守護に任命されるなど、まさに得意絶頂の戦国大名へとのしあがってゆきます。
この躍進を支えたのが「豊州三老」でした。
吉弘鑑理(よしひろあきただ)と立花道雪に加えて、そこに名を連ねたのが臼杵鑑速。
「鬼道雪」なんて呼び名で知られる立花道雪と共に評されるのですから、どれだけ評価が高かったか、ご理解いただけるでしょうか。
彼らは軍事や知略の両面で大活躍するのです。
毛利や龍造寺と死闘を繰り広げ
では臼杵鑑速には一体どんな実績があったのか?
まず毛利との抗争に注目してみましょう。
永禄4年(1561年)に主君の大友宗麟が毛利氏と激突。
その際、敵の支配下にある門司城の奪還を狙い、同じく重臣であった吉岡長増と共に1万以上の兵を率いて出陣したのが臼杵鑑速でした。
鑑速は周辺の城を手早く落とすなど成果を見せたのです。
しかし、長旅ということもあって、小早川隆景の抵抗に遭うと、門司城の奪還を果たせず帰国しました。
後に豊臣秀吉からも高く評価される小早川隆景が相手であっては仕方がなかったでしょう。
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また、永禄5年(1562年)には、大友家臣で名門の高橋家を継いでいた高橋鑑種(あきたね)が毛利と内通し、彼に影響されて秋月種実(あきづき たねざね)や立花鑑載(あきこと)といった家臣らが反宗麟の動きを見せ始めます。
高橋鑑種は永禄10年(1567年)に挙兵。
この動きに呼応する形で秋月種実や立花鑑載だけでなく、周辺の有力国衆たちも争いに介入してきました。
すかさず大友宗麟は、臼杵鑑速をはじめとする豊州三老を出兵させ、宝満城や立花城を占拠したクーデター勢力と熾烈な争いを繰り広げます。
敵は、毛利氏の後援を受けており、非常に苦しい戦運びを強いられました。
しかし、最終的に立花城・宝満城ともに和睦という形で取り戻しています。
ちなみに、交渉の結果、高橋鑑種は小倉へ移され、宝満城・岩屋城を任されたのが鑑種の養子となった高橋紹運(じょううん)です。
西の戦国最強武将として知られる立花宗茂の父ですね。
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その後は、三老として対龍造寺の戦にたびたび出陣。
攻めあぐねては和睦し、次に対峙した際には力を強めてくる龍造寺隆信としたたかさに手を焼き、ついに彼らを打倒することはできませんでした。
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しかし「三老」の立場で大友の主要な戦を重ね、多くの功績を残したことから、彼の活躍は、
【才徳勇猛ノ良将也】
として後世に語り継がれています。
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