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【大内義隆】
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義隆の替わりに担ぐ神輿さえいれば
武断派の陶晴賢からすれば、こうした流れもイライラの原因です。
義隆は、陶晴賢の謀叛によって最期をとげるのですが、謀叛の理由として、痴情のもつれの他に
「義隆様はすっかり柔弱になってしまわれた!
それもこれもあれも、全ては武任みたいなナヨっちい奴が媚を売るからに違いない!!
アイツを殺せば、義隆様はまた武士らしくなってくださる!
……それでもダメなら……」
みたいな考えがあったようです。
ちなみに、陶晴賢の父・陶興房(すえ おきふさ)は、義興の代から義隆が家督を継いでしばらくの間の重臣でした。
前述の通り、大内氏では代替わりごとの恒例行事みたいなペースで重臣の討伐をしていたのですが、義隆の代ではそれが行われていません。
もしも義隆が興房を誅伐していたら……。
痴情のもつれも息子・陶晴賢の謀反もなかった可能性があります。まあ、「IF」の話ですけどね。
そんなこんなで、募る陶晴賢のイライラ。
当初は「義隆を強制的に隠居させて、幼い義隆の息子・大内義尊(おおうち よしたか)を次の当主にする」という計画もあったようです。
しかし、義尊の母・おさいの方が元々義隆の正室である万里小路貞子の侍女だったこと、義隆と貞子の夫婦仲が良くなく、当時とは異例ともいえる離婚をしていること、おさいの方の素行に疑問があったことなどから、「義尊は義隆の実子ではない」という疑いがありました。
仕方がないので陶晴賢は別の神輿を探すことにします。
目をつけられたのが、かつて義隆の猶子になったことがある大内義長(当時は晴英)でした(義隆には当時もう一人息子がいたのですが、幼すぎて無理だと考えられたようです)。
大内義長は、母が大内義隆の娘で、父が大友家当主・大友義鑑だったのです。
血筋は問題ありませんね。
大友家の次代当主・大友宗麟(大友義鎮)が、義長の実兄でしたので、九州との関係もより強化される可能性がありました。
戦国九州の王者か非道の暗君か?大友宗麟(義鎮)58年の生涯まとめ
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追い込まれて自害 享年45
実は、義尊が生まれる前に「もしもこの先、義隆に息子が生まれなかったら」という条件付きで、義長が義隆の跡継ぎ候補になっていたことがありました。
そこに義尊が生まれたため、義長との縁組は一度解消されていたのです。
陶晴賢にとっては、渡りに船。
年齢・血縁・健康の条件が全て揃う義長を再び迎えるのがベストだと思われました。
こうなると、もはや止まりません。
既に大内氏の内側でも、陶晴賢の謀反は公然の秘密状態になっていたようで、しかし肝心の義隆は信頼しきっており、討伐どころか調べさえしていなかったという……。
天文二十年(1551年)頃には、「義隆親子の殺害と義長擁立」の路線が確定。
同年8月に実行され、9月1日には義隆が自害します。享年45。
息子の義尊は一度は逃げたものの、その日のうちに陶晴賢に殺されてしまいました。義隆の姉妹なども自害し、大内氏の縁者はほとんどいなくなってしまいます。
【大寧寺の変】と呼ばれる事件です。
ただし、義隆の息子で、この時点では助かった人もいました。
義尊よりも幼かった大内義教(よしのり・亀鶴丸)と、当時生まれていなかった大内義胤(おおうちよしたね)です。
義教は同年11月に捕らえられて処刑されましたが、一応生存説もあります。
義胤は石見に逃れて生き延びたようですが、詳しい生涯がわかっていません。この状況では、そのほうが幸せかもしれませんが。
もしも滅亡しなけりゃ後の毛利躍進も?
当時の大内氏で一番長生きしたのは、おそらく義隆の母・東向殿です。
大寧寺の変の時点で80歳を超えていたとも言われ、そのためか陶晴賢も追手を差し向けてはおりません。
東向殿が亡くなったのは、永禄二年(1559年)とされています。
孫の大内義長(義隆姉の息子)よりも後のことでした。
義長は毛利氏に敗北の後、自害を強要されてこの世を去っています。
「子に先立たれる」のは戦国時代にはままあったことですが、孫までというのは、輪をかけて悲しい話ですね……。
「東向殿が優しすぎたから義隆も似たのだ」という見方もあるようですけれども、少なくとも尼子氏にボロ負けするまでの義隆はそれほどでもありません。
もしも本人の切り替え方が上手くいっていたら、あの毛利元就も、今日語られているほどの立場にはならなかったのかもしれません。
陶晴賢は、厳島の戦いで元就に滅ぼされ、そして中国地方に毛利王国ができるのでした。その詳細は以下の記事をご参照ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「大内義隆」
宮本義己『<毛利と戦国時代>大内氏乗っ取りのシナリオ』(→amazon)
小和田哲男『<下剋上と戦国時代>陶晴賢 領民解放のクーデター』(→amazon)
大内義隆/wikipedia