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【大内義隆】
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大宰大弐の官職で大義名分をゲット
義隆は、肥前で有力な水軍を持っていた松浦党を傘下に入れました。
北九州海域を勢力下におさめ、貿易ルートを確保したのです。
それでも細々と残っていた少弐氏を排除するため、義隆は違うアプローチをしはじめます。
これは義隆に限ったことではなく、金と領土が手に入ると、次に欲しくなるのが名誉です。
元から彼は、太宰府No.2である【大宰大弐】の官職を欲しがっていましたが、朝廷から簡単には許可が降りず、焦れてもいました。
そこで義隆は、後奈良天皇の即位式費用を献金するなどして、さらにゴマすr……お願いを重ねます。
天文五年(1536年)5月。
長年の活動がやっと実を結び、大宰大弐の官職をゲット!
後奈良天皇は嫌がっていたようですが、朝臣に説得されて折れたようです。
これによって義隆に大義名分ができたので、同年9月になると少弐氏を攻め、結果、滅ぼすことに成功しました。
ちなみに、この翌年には十二代将軍・足利義晴から
「上洛して幕政を手伝って」
と言われていたのですが、義隆は
「ウチ国元が忙しいんで行けません^^」
と断っています。
すでに形骸化した幕府のために働くより、地元を発展させたほうが自分の家のためだと判断したのでしょう。賢明ですね。
あるいは、大宰大弐の官職を得た時点で
「俺はもう朝廷に認められたんだから、幕府なんかどうでもいい」
と思っていたのかもしれません。
実力でいえば朝廷のほうをナメてもおかしくはないのですが、そこはそれ、権威というやつです。……多分。
あの毛利も傘下におさめていた
天文九年(1540年)からは、安芸の毛利氏に攻めかかっていた尼子軍を追い払うため、毛利氏に加勢します。
吉田郡山城(現・広島県高田郡吉田町)を取り囲んでいた尼子軍に対し、その外側からつついて撤退させました。
実際に出向いたのは陶晴賢などですね。
また、翌年には厳島神主家の友田氏を滅ぼして桜尾城を手に入れ、さらに佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を陥れて安芸守護家の名門である安芸武田氏を実質的に滅ぼし、同エリアの領国化をほぼ完成させています。
毛利元就が大内氏の傘下にいた頃、と考えてもいいかもしれませんね。
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これらの戦績もあって、天文十年(1541年)の年末には従三位に昇格、公卿の一員となりました。
戦国時代は好き勝手に官位を名乗っていた大名や武将が多かったことで有名ですが、義隆は正式に朝廷から任じられたものです。
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こうして名実ともに抜きん出た義隆は、この機会に尼子氏を完全に討伐してしまおうと考えました。
大内氏にとっては運良く、このころ尼子氏では謀将と名高い尼子経久が亡くなっており、力も弱まったと考えられたようです。
家中からも賛成の声に押され、天文十一年(1542年)正月、自ら率いた尼子討伐軍が出発。
今日では【第一次月山富田城の戦い】と呼ばれる戦が始まります。
このとき、安芸から出雲に向かうルートを使っており、備後や石見の豪族たちも従軍しています。
当時の義隆の威光がうかがえますね。
大所帯かつ途中で厳島神社に寄って戦勝祈願などもしていたので、出雲に着いた頃には既に4月頃。
しかし、尼子氏の本拠である月山富田城に着く手前の城攻略に1ヶ月以上を費やしてしまい、月山富田城の手前に本陣を置いた頃には既に10月になってしまいました。
旧暦の10月ですから、そろそろ冬が見えてくる頃合いです。
天然の要塞とゲリラに悩まされ 攻略に失敗
月山富田城は、天然の要害をさらに要塞化したような場所でした。
加えて、尼子軍はゲリラ戦術も取り入れ、そう簡単には揺らぎません。
そもそも、城攻めは城方が有利なものですし、本拠であればなおのことです。
大内軍の旗色の悪さを悟った豪族たちの中からは、天文十二年(1543年)4月末に尼子軍へ寝返る者も出始めました。
このままでは攻略ムリ!と見て、義隆は5月7日に撤退を始めさせます。
しかし、撤退戦が難しいのは戦の定番。
尼子軍の追撃は激しく、大内軍は総崩れギリギリのところまで追い詰められます。
しかもこのとき、義隆と別行動・海路で撤退しようとしていた養嗣子の大内晴持(甥・姉の息子)が、船の転覆という事故で水死してしまうのです。
なんでも「水に落ちた兵が船に乗り込もうとするのを、船上の漕手が棹で払い落とそうとして、バランスが崩れた」そうです。なんじゃそりゃ!
こうして義隆の尼子征伐は大失敗に終わりました。
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