【◯◯の乱】や【✕✕の変】が続き、なんだかとっつきにくい室町時代。
その終盤となると途端にテンション上がりますよね。
そうです。
戦国時代です。
織田信長に武田信玄、毛利元就、伊達政宗など。
個性に富んだキャラクターや激しい合戦譚は子供から大人までワクワクさせてくれるものですが、彼ら戦国武将も突然、降って湧いたように現れたのではなく、歴史の流れに沿って出現してきました。
ではいったい有力大名や国人たちは、どのようにしてのし上がったのか?
名門はなぜ名門と呼ばれるのか?

今回は、戦国大名と併せて守護大名にも注目してみましょう。
言葉そのものは戦後に生まれた
「守護大名」にせよ「戦国大名」にせよ。
これらのワードは戦後に生まれた学術用語です。
もとは鎌倉幕府にも室町幕府にも設置されていた【守護】が守護大名の語源。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)
鎌倉時代の守護・地頭は、朝廷から派遣された国守とうまくやっていくことも仕事のうちでした。
が、室町時代にもなると国守の力はほとんどなくなり、守護が国守の仕事も実質的に行っています。
これによって収入も軍事力もUP!
そもそもが武士ですから家臣団もおり、武力と経済力が伴った小国家みたいな組織となりました。
鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、室町幕府の力が相対的に弱く感じられる理由の一つですね。
力を得る代わりに守護の職務も増えますが、さほどの問題ではなかったようで。
このような状態になってから「守護」ではなく「守護”大名”」と呼ぶことが多くなる気がします。
しかし、あくまで建前上は「幕府に任命されて守護の地位を得ている」ポジションのため、将軍によっては色々と口と手を突っ込まれることもありました。
守護大名のほうでも、自分に有利になるよう権威を利用するため、次期将軍候補の後ろ盾になったり、婚姻関係を結ぶなど、政治的駆け引きをし始めますからドッコイドッコイですね。
ものすごくテキトーにいうと、藤原氏が皇室に対してやってたことを、特に近畿周辺の守護大名が足利将軍家にやっていた……という感じです。
こういうパターンは古今東西、どこでもよくある構図です。
国人とモメれば守護失格!?
しかし、守護大名は別の問題を抱えておりました。
「自国内の国人たちともうまくやっていかなければならない」のです。
国人とは、もともと地元に根付いた有力武士たちです。
一方の守護は幕府から任命されるヨソモノであり、当然、国人からすると
「おめえら、何も知らんくせに、勝手に色々と決めるんじゃねー!」
となりがちです。
当然ながら守護としても退けません。
「俺は正式なこの地域の主なんだから、俺に従わないヤツは武力行使すんど!」と強気に出るケースもあります。
現代でいえば「中央省庁の上級官僚が地方の支所に赴任して、部下の大多数が現地住民であり、その中には地元の名士もいる」状態に近いですかね。
まぁ、現代の官僚の場合、圧倒的に中央省庁の方が偉いわけですが、この時代は、それほどのチカラがありません。
つまりモメる。
下手をすれば、国人に信用されない守護が更迭されることもありました。
だから守護の代替わりについては、守護大名家の家臣だけではなく、国人の意向が取り入れられたりして、幕府も守護も国人も(少なくとも表向きは)穏便に済ませようとするのがスタンダードでした。
地元を離れていたら守護代に取られていたでござる
幕府の方針を決める会議に参加するなど。
守護は、中央の政治に関与することもありました。
そのため守護本人は京都に住み、国元のことは【守護代】や守護大名家の重臣・親戚に任せる――というパターンも珍しくありません。
15世紀には、
・鎌倉公方の支配地域10カ国
・九州探題の管下11カ国
・陸奥&出羽
以外の守護21家が将軍御所の周りに住んでいた、なんて話もあります。
これが守護家にとっては良くない選択でした。
守護代が地元でチカラを蓄え、実質的領主に成り上がっていくのですね。
かくして守護大名たちは、戦国時代を迎えると栄枯盛衰の差が大きくなっていきます。
・守護代や重臣、あるいは国人に下剋上されて没落する
・自らの力を強めて戦国大名化する
こうした地道な勢力争いの末に生き残ったのが戦国大名であり、その成り立ちは今言った通り、主にパターンに分類されます。
守護大名から戦国大名へ
武田家・今川家・佐竹家・細川家・六角家・京極家・北畠家・大内家・大友家・島津家
守護代やその一族から
上杉家・織田家・尼子家・朝倉家・三好家
国人から
伊達家・松平(徳川)家・浅井家・毛利家・長宗我部家
守護・国人の家臣から
後北条家・斎藤家
なんだか楽しくなってきましたね( ^ω^)
この先は、何時間掘り下げても面白いネタばかりで尽きることがありません。いくつかの代表的な大名家の成り立ちを見て参りましょう。
それぞれの家について、ご先祖様や戦国時代までの流れをもう少しだけ詳しくまとめました。
受験ではそれぞれの家の成り立ちまで覚える必要はありませんが、以下の家についてなんとなく覚えておくと、戦国時代や江戸時代の大名家が少し面白くなるかもしれません。
※織田氏・松平(徳川)氏・後北条氏・斎藤氏は別の機会に
まずは【守護大名→戦国大名】のパターンです。
今川氏
足利氏の三代目・義氏の孫である国氏。
その父・長氏より三河国幡豆郡今川荘を与えられ、今川氏を名乗ったのが始まりです。
今川国氏の孫である今川範国が南北朝時代に足利尊氏について戦功を立て、遠江・駿河両国の守護に任じられ、東海道の要という立場を確立します。
また、範国の次男・今川貞世は、侍所頭人や九州探題などの要職も経験するのでした。
さすがは将軍家に連なる名門ですね。
今川氏は、特に大きな問題もなく家が続き、九代・今川氏親のときには斯波氏から遠江を奪って勢力を拡大します。
しかし、氏親の長男だった今川氏輝が早くに亡くなったため、次男の今川義元がお家騒動の末に家督を継承。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
あの【桶狭間の戦い】で織田信長に敗れ、義元の息子・今川氏真の代になると、戦国大名としての今川家は滅亡しました。その後は徳川家康に庇護され、子孫は江戸時代まで続いています。
「名を捨てて実を取った」
そう考えれば、氏真も暗愚とはいえない気がします。戦や外交、統治に向いていなかったのは、もう否定しようがありませんが。
細川氏
足利氏の祖・足利義康の長男である足利義清。
さらにその孫である義季が、三河国の額田郡細川郷(愛知県岡崎市)に移ったことから細川氏を名乗りました。
鎌倉時代末期には、足利義季の曾孫の代で和氏・頼春・師氏兄弟と、顕氏・定禅・皇海兄弟が、足利尊氏に従って軍功を挙げ、多くの国の守護職や重職を得ています。
正平七年(1352年)には細川頼春が戦死。
さらには足利顕氏が病死したのち、頭角を現わしたのが細川和氏の嫡子・細川清氏でした。

細川清氏/wikipediaより引用
清氏は二代将軍・足利義詮の代で戦功も挙げたのですが、増長しすぎて義詮に疎まれ、南朝方へ帰順(という名の家出)をしてしまいます。
その後、清氏は頼春の嫡子であるイトコ・細川頼之と讃岐で戦い、敗死しました。
頼之はこれまでの戦功と清氏討伐の戦果により、義詮の遺言によって室町幕府管領の職を与えられます。
そのため、頼之は幼い三代将軍・義満を守り立てながらも出過ぎることはしませんでした。一時は政争に敗れて中央から四国へ引っ込みますが、やがて復帰していますしね。
頼之には自分の子供がいなかったため、弟・頼元を養子として家を継がせました。
この時点で細川氏は【摂津・丹波・讃岐・土佐】四ヵ国の守護を世襲する大きな家になっています。
嫡流である【京兆家】
庶流である【阿波守護家・備中守護家・淡路守護家・和泉半国守護二家】
など、藤原氏にタメを張りそうなくらいの規模。
細川氏は子だくさんな人と子供に恵まれなかった人の差が激しいのですが、やっぱり前者のほうが多かったみたいですね。
しかし、応仁の乱で東軍の総大将だった細川勝元の息子・細川政元が【空を飛びたい】がために、清い身を保ったことで家が真っ二つに割れ、細川氏全体の力がガタ落ちしてしまいます。
その中で、和泉半国守護の家系である細川藤孝(幽斎)・細川忠興親子が巧みな処世術と実力で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代を生き残り、江戸時代を生き抜いて今に至るわけです。
政元が普通に子供を作っていたら、日本人の中で細川家の血が流れている人の割合が高くなっていたかもしれません。
武田氏
言わずと知れた武田信玄の武田氏。
その祖はいかなる経緯で甲斐に根を張ったのか?
河内源氏二代目・源頼義の孫であり、源頼光の子である源義清。
その義清が、常陸国吉田郡武田郷(茨城県勝田市)に定着して「武田冠者」と名乗ったことから武田氏となりました。
常陸を追われて甲斐に落ち着いてから、武田氏の歴史が本格的に始まります。
初代は武田信義。
【甲斐武田氏の初代】であり、源義光からの【甲斐源氏で考えると4代目】になりますね。
その信義は十二世紀末、治承・寿永の乱(源平合戦)で源頼朝につき、遠江守に任じられました。
親戚には信濃守・小笠原長清がおり、全体として甲斐源氏が鎌倉からの北西守備を請け負うようなポジションになります。
しかし、頼朝自身が、武田氏を含む甲斐源氏の勢力拡大を危惧し、彼らを冷遇し始めます。
信義は養和元年(1181年)に、「後白河法皇が頼朝追討使に任じた」という風聞が立っていたので仕方ない面もありますが……。
このときは起請文(「神に誓って悪いことはしてません」という内容の書状)を出して何とかなりますが、その後、信義の息子・武田忠頼が暗殺されたり、頼朝に兵を出されたりして散々な扱いを受けています。
頼朝さんも、この時点で、まだ平氏が片付いてないんですよ。
なのに、身内を疑ってどうする(´・ω・`)
信義の子・武田信光は頼朝に信頼されており、安芸の守護も兼任。
以降の子孫たちは甲斐守護と安芸守護を世襲し、また、甲斐の荘園における地頭職も、武田氏が多数を占めるようになりました。
信玄の時代も、甲斐国内の至るところに親類が根ざしています。

武田信義/wikipediaより引用
信光の子・武田信政以降の四代については記録が乏しく、働きぶりがよくわかっていません。
信光が【承久の乱(承久三年=1221年)】のしばらく後まで当主をやっていたので、それ以降の代は鎌倉での政争に巻き込まれずに済んだものと思われます。
他の鎌倉幕府重鎮が、北条氏に粛清されまくった事を考えれば、「手紙がないのは元気な証拠」ならぬ「記録がないのは平穏な証拠」といえなくもない……ですかね。
鎌倉時代末期~南北朝時代の当主・武田信武は足利尊氏に従って活躍し、あらためて甲斐と安芸の守護に任じられました。
このため、彼は【武田中興の祖】とされています。
信武の長男・武田信成は、父の転戦中に甲斐の守護代として留守を守り、次男の武田氏信は安芸国守護を継承、【安芸武田氏】の祖となりました。
源氏にしては珍しく兄弟間で平和に役職が分担されてますね。
※なお、この安芸武田氏から若狭武田氏(初代は武田信栄)も始まっております
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武田義統の生涯|若狭武田氏の8代当主・甲斐武田氏とはどんな血縁なのか
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地勢上、鎌倉幕府とも室町幕府とも物理・心理両方の面で密接ではなかった武田氏ですが、応永二十三年(1416年)に起きた【上杉禅秀の乱】から少し情勢が変わってきます。
ときの当主・信満が禅秀(氏憲)の妻の兄であったことから、鎌倉府内の政権抗争に巻き込まれてしまったのです。
武田は禅秀方につき、すぐさま鎌倉公方・足利持氏に敗れて本国の甲斐まで攻め込まれ、武田信満は山梨郡の木賊山(とくさやま・現在は天目山・東山梨郡大和村)で自害しました。
その後、信満の弟、および長男・武田信重は、反武田氏を掲げる勢力に押され、近畿や高野山まで流れていきます。
一時期、甲斐を離れていたんですね。
やっと地元に戻れたのは、室町幕府六代将軍・足利義教の庇護があったから。
将軍の引き立てがなければ、甲斐武田氏はそのまま歴史に埋もれていたかもしれません。そうなれば信玄も生まれていなかった可能性が……。
武田信重の子・武田信守は早くに亡くなり、その子・武田信昌が九歳で家督をつぐと、跡部景家が守護代として専横を働きました。
信昌は、成人するのを待ち、寛正六年(1465年)に跡部一族を滅ぼして権利を回復。
しかしその信昌も、明応元年(1492年)に隠居して家督を長男・武田信縄に譲ったにもかかわらず政治に口を出しまくり、次男・信恵をえこひいきしたために兄弟間で争いが勃発してしまいます。トーチャン勘弁して!
影響は小さくなく、甲斐の国人層も真っ二つに分かれてしまい、国内は荒れ放題になるのでした。
結局、信昌が永正二年(1505年)に没すると、信縄もその二年後に亡くなり、信縄の長男・武田信虎が十四歳で家督を継ぎます。

武田信虎/wikipediaより引用
信虎とは、信玄のトーチャン。ご存じの方も多いかもしれません。
このあたりから今川氏や後北条氏に介入されたり一戦交えたりが常態化し、信玄や勝頼の時代に続くわけです。
その後の話は有名ですし、大河ドラマでも何回もやってますので、今回は割愛しておきます。
佐竹氏
河内源氏の二代目・源頼義の孫・義業(源義清の兄)を先祖としています。
武田信玄と、だいぶ前の根っこが同じというワケですね。
佐竹氏を名乗るようになるのは義業の子・昌義の代からです。
時期としては12世紀前半。
平清盛や源義朝(頼朝のトーチャン)が生まれるちょっと前くらいの話です。
そこから半世紀程度で佐竹氏は常陸南部~下総をシマにしたといわれています。仕事が早いですね。
源平合戦では平氏方についたため、頼朝に追討されて一時所領を失いました。
が、奥州藤原氏との戦いで頼朝軍に参加、その恩賞として常陸に幾ばくかの領地をもらったようです。
その後の常陸での活動は定かではなく、美濃や伊勢で佐竹氏が活動していたらしきことが記録されています。って、どういうことなのよ(´・ω・`)
鎌倉幕府の滅亡後は足利尊氏に従い、常陸守護職を与えられて平安時代の所領をほぼ回復、さらに陸奥南部から常陸中央部まで進出していきました。
なんだか順調なように見えますが、この先は、家が断絶しかけたり、あろうことか藤原氏系である上杉憲定の子・竜保丸(のち義人)を養子にしたりして家中の混乱を招いたりもしてします。
戦国大名として有名な義重・義宣の代は比較的安定していました。

佐竹義宣/wikipediaより引用
関ヶ原の際はコッソリ西軍寄りになっていたため、徳川家康の怒りを買って出羽へ国替え。
それ以降は出羽に落ち着き、明治時代には侯爵にまでなりました。
2018年現在の秋田県知事が、佐竹氏の末裔として有名ですね。
六角氏と京極氏
どちらも宇多源氏の血を引く佐々木氏の一族です。
鎌倉時代に、五代目佐々木信綱の三男・佐々木泰綱が正室腹だったため跡継ぎになりました。
が、他の三人の兄弟がこれに不満を述べたため、鎌倉幕府が仲裁に入り、四兄弟で分割相続・独立。それぞれ大原氏・高島氏・六角氏・京極氏の祖となりました。
この時点で枝分かれしている上に、力も削がれてしまっています。
泰綱が嫡流なのに、なんで名字が「佐々木」じゃないのか?
というと、六角氏としての初代である泰綱が、京都の六角東洞院というところに屋敷をもっていたからです。よくある話ですが、ややこしいですね(´・ω・`)
京極氏は「蛍大名」で有名な京極高次が後に出てくる家です。

京極高次/wikipediaより引用
なぜ蛍大名かというと、高次の妹が秀吉の側室となり、また、自身の妻が浅井三姉妹・初であり、彼女らのおかげで出世した――という意味でヒソヒソ言われちゃったんですね。名門ゆえに僻まれたと申しましょうか。
この京極家は、南北朝時代に足利尊氏に重んじられたため、佐々木氏の惣領の座を与えられ、子孫の代になって「四職」の一員ともなりました。
四職とは、室町時代の要職である侍所の長官を務める家柄で、他には赤松氏、一色氏、山名氏がおります。
いずれも嘉吉の乱やら応仁の乱やらで聞いたことのある名前ばかりですね。
対する六角氏は、南北朝時代には後醍醐天皇方だったため、後に尊氏に降ったものの、惣領の面子は失ってしまっています。
それが影響して室町時代にはあまり良いことがなく、国人たちにも背かれて、勢力を拡大することができませんでした。
血筋的には名門。
かつ近江という要所の大名なのに、戦国時代にあまり名前が出ず、織田信長の踏み台みたいな扱いをされてしまうのも、古い因縁のせいだったんですね。
ちなみに、信長に気に入られて出世した蒲生氏郷の近江蒲生氏は、六角氏の客将でした。

蒲生氏郷/wikipediaより引用
優秀な家臣のほうが生き残る――というのはこの時代のあるある。
まぁ、その蒲生家も江戸時代の初期に断絶してしまっていますが……。
北畠氏
村上源氏の系統で、もとは公家です。
源通親の孫・中院雅家から北畠氏を称していて、そのひ孫である四代・北畠親房が後醍醐天皇に信頼され、天皇の薨去後の南朝を主導しました。
親房は『神皇正統記』の著者としても有名ですね。
親房の三男で五代・北畠顕能の頃になると、延元三年=暦応元年(1338年)に初めて伊勢守に叙任され、しばらく南朝方で戦い続けます。
そして北畠教具の代から室町幕府に仕えるようになりました。
教具の「教」は当時の将軍である六代・義教からの偏諱です。こうしてみると、義教っていろいろなところで出てきますね。
戦国時代を通しては、現在の津市と松阪市の中間あたりに注ぐ雲出川以北には北畠氏の力がほぼ及びませんでした。
ただし、朝廷から正式に任じられた国司の家柄だけあって、南半分地域では勢力が安定しております。
しかし、北畠具教の時期になって織田信長の侵攻が本格化し、婿養子戦略などによって、戦国大名及び伊勢国司家としては滅亡することになります。
大内氏
「大内」という名字を名乗った一族はたくさんいます。
そのうち戦国大名の大内氏(周防大内氏)を指すことが多いので、ここでもそこにスポットを当てましょう。
家紋「大内菱」が幾何学模様と花の図案化でカッコいいんですよね。
彼等の出自というのは、百済の王族・琳聖太子が周防国に逃れ、聖徳太子に謁見した後、大内県と多々良の姓を与えられた……なんてありますが、それはさすがに……^^;
もう少し現実的な説としては、製鉄技術を半島から持ってきた渡来人の末裔ではないか、という見方があります。
12世紀半ばから周防に根付いて以来、ずっと鎌倉幕府の御家人であり、六波羅評定衆も務めたことがあるので、由緒正しい一族であったことは間違いありません。
九代・大内弘世の代、南北朝時代初期になると中国地方西部に勢力を広げ、山口を本拠としました。
しかし十代・大内義弘は力を持ちすぎて三代将軍・足利義満に睨まれ、応永の乱で断絶寸前まで追い込まれてしまいます。
いろいろあった後、義弘の弟・盛見が許されて家を再興できました。
そこからは怒涛で短い栄光期を迎えます。
戦国時代に当主となった十五代・大内義興が幕府の管領代になり、その子で十六代・大内義隆が、周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前七ヵ国の守護を兼ね、西国随一の勢力を誇るようになるのです。

大内義隆/wikipediaより引用
しかし、天文二十年(1551年)に家臣の陶晴賢が(痴情のもつれが極まって)義隆と一族を攻め滅ぼしてしまったことから、一気に凋落。
晴賢が、義隆の甥・大内義長を担ぎ上げたものの、足場固めに成功しつつあった毛利元就との【厳島の戦い】で敗れ、その後間もなく大内氏自体が滅んでしまいます。
大内氏はその出自のためか、歴代の朝鮮政権とも積極的に付き合い、貿易で巨額の富を築いていたことも特徴の一つです。
それを元手に学問・芸術を奨励し、山口の町は小京都とも呼べる姿になっていました。
また、キリスト教の宣教師や、京から落ち延びてきた公家を積極的に保護しています。
日本で最初に「メガネ」をかけたのが大内義隆であるというのも、戦国ファンには割と有名な話ですね。
大友氏
初代・大友能直(よしなお)は相模出身。
父親が郷司(在地の官僚)であり、能直は後に中原親能(藤原親能)の養子となったことから始まります。能直から見た親能は、母の姉婿(義理の伯父)にあたります。
親能は源頼朝の重臣で、弟が毛利氏の先祖である大江広元なので、大友氏と毛利氏はいろんな意味で因縁があるといえます。
それ以前の血統については、二つの説があります。
一つは藤原秀郷の子孫だというもので、もう一つは頼朝の落胤という説です。
どちらかというと前者のほうが有力です。って、そりゃそうだ。
また、能直の母の実家・波多野氏は相模の有力な豪族であり、源頼朝の父・源義朝が波多野氏の娘との間に源朝長(※)をもうけていました。
血筋についてはまだ定説がないものの、立場としては重要な位置にいたといえます。
頼朝は九州の守護として、大友・島津・少弐といった当時の新興勢力をあてました。
おそらくは頼朝から見て、遠隔地を任せるに値すると判断した人を選んだのでしょう。九州は朝廷のお役所である大宰府がありますから、京の事情もある程度わかるような人、という条件もあったのかもしれません。
それでも初代・能直と二代・親秀は九州に定着しておらず、三代・大友頼泰の代から豊後に下向しました。
別に仕事をサボっていたわけではありません。
当時の大友氏は頼朝との信頼関係が基盤だったため、うかつに鎌倉を離れると地位や名目をまるっと失うおそれがあったからだと思われます。
頼泰の代には元寇の危機にさらされ、名実ともに下向の理由ができました。
そこで頼泰は元寇で戦功を挙げ、大友氏の武名を高めて基盤を作り上げます。
以降、大友氏とその分家は豊後に定住し、領内の豪族に子供を養子入りさせるなどして、勢力を強めていきました。
大友氏の分家に始まる家としては、入田氏・野津氏・松野氏・立花氏などがあります。
鎌倉幕府の祖・頼朝の引き立てで九州の名門となった大友氏ですが、後醍醐天皇による【元弘の乱】においては最初から倒幕側。
六代・大友貞宗が、少弐貞経らとともに鎮西探題の北条英時を滅ぼしました。
建武の新政の後は、足利尊氏が近畿での戦いに敗れ、九州に落ち延びてきたときも、比較的早い段階で尊氏方についています。
しかし、その後九州では南朝方が優勢になったため、難しい決断を迫られました。
そこで九代当主・大友氏継は一計を案じます。
自分は南朝方につき、家督を弟の大友親世に譲って十代当主とし、そのまま北朝方につかせたのです。
これで大友氏自体は生き残れます。
ただし、血筋は氏継系と親世系に分裂することにもなってしまいました。いつの時代も難しいものですが、中世の殺し合い激しいときにはなおさら困難という感じがしますね。
室町時代が少しだけ安定してくると、幕府から派遣されてきた九州探題とは、一定の距離を置いていたようです。
そして応安三年(1370年)。
九州における南朝勢力・征西府を討伐するためとして、足利幕府から今川貞世(今川了俊)が派遣されてきていました。
親世は貞世に接近して所領を拡大。
九州から南朝方が駆逐されると、今度は大内義弘とタッグを組んで貞世に関する讒言で失脚させます。
まさに使い捨て……ひでぇ話ですが、悲しいけどこれ戦争なのよね……。
その後、大内氏とも少弐氏とも戦国時代を通して戦ったり、氏継系と親世系が交互に当主になったり、その流れで滅亡寸前まで行ったりして時代が進みます。
そして二十一代当主が、キリシタン大名として有名な大友義鎮です。
出家後の大友宗麟のほうが有名ですかね。

大友宗麟/wikipediaより引用
立花道雪など、特に優秀な家臣が多かった時代ですが、キリスト教を重んじすぎたのがいけなかった。
家臣の大多数である八幡神や、仏教への信仰が厚い層との軋轢を生んでしまいます。
さらには、早くに息子・大友義統(のちに吉統)に家督を譲って二十二代当主にしたにもかかわらず、二元政治状態に。
つまり、宗麟は
「宗教」
「世代交代」
という二つの面で、家中分裂のキッカケを作ってしまったのです。
そんな状態ですから、龍造寺氏や島津氏との合戦でも大敗してしまい、国人たちは一斉に反旗を翻すようになりました(ノ∀`)アチャー
なんとか挽回しようとしたものの、自力では抗いきれず、宗麟は関白となった豊臣秀吉に臣従して生き残る道を選びます。
おかげで豊後一国は安堵されました。
しかし、中心の一人・立花宗茂が秀吉の目に留まって独立大名となったことで、力を削がれています。
また、宗麟の死後、大友義統は【文禄の役】で敵前逃亡をやらかし、文禄二年(1593年)に秀吉から改易を申し付けられてしまいました。
渡航前に家督を嫡男・大友義乗に譲っていたため、ギリギリ家は残りましたが……。
これにより、後の【関が原の戦い】では吉統が西軍総大将・毛利輝元の支援で挙兵、豊後に侵攻しています。
東軍の細川忠興などに与えられていた旧大友領回復を図ったのです。
しかし、ここで立ちはだかったのが黒田官兵衛こと黒田孝高(如水)。

黒田官兵衛/wikipediaより引用
官兵衛にコテンパにされ、大名としての再興の芽は潰えてしまいました。
幸い、義乗が若いときから人質として江戸におり、秀忠の近侍をしていたため、そのまま旗本として幕府に直接仕えるようになります。
その後は一時断絶しかけましたが、義乗の異母弟・松野正照が熊本藩士になっていたため、その子・義孝に家門再興が許可。
高家(儀式や典礼を担当する家)として存続しています。
※源朝長……頼朝のすぐ上の異母兄。松田冠者とも。平治の乱で敗れた後、関東へ落ち延びる途中で傷が悪化して死亡した
島津氏
初代の島津忠久は、藤原氏系の公家である近衛家の下家司・惟宗氏(これむねうじ)の出身とされています。
京で頼朝の知遇を得てから、治承・寿永の乱において戦功を挙げ、その後、薩摩・大隅・日向の南九州三国の守護兼惣地頭となりました。
忠久の母・丹後内侍(たんごのないし)が比企氏の出身だったため、建仁三年(1203年)の【比企氏の乱】に連座して三カ国の守護職を失っています。
後に薩摩守護だけ許されましたが、大隅・日向回復は島津氏の悲願となりました。
また、承久三年(1221年)には信濃国太田荘地頭職、および越前国守護職に任じられています。

島津氏の祖である島津忠久/wikipediaより引用
これがキッカケで、島津氏の分家筋に信濃や越前の系統ができます。
二代・忠時(忠義)は、伊賀や讃岐の地頭職を受け、鎌倉に常住する御家人でした。
九州から出ていたんですね。
三代・久経は、元寇に備えるため、幕府の命令によって九州に行ってから、代々、九州に住むようになります。この辺は大友氏の流れと似てますね。
そして五代・貞久になると、足利尊氏と後醍醐天皇の要請で少弐氏・大友氏とともに挙兵。
鎮西探題・北条英時を討ち取りました。
その恩賞として大隅と日向の守護職に復帰しましたが、後者についてはのちに別の家に取って代わられております。
南北朝時代には将軍方(北朝方)の一員として戦いました。
貞久は、嫡男・宗久を早くに失っていたため、三男・師久(総州家の祖)に薩摩国守護職を、四男・氏久(奥州家の祖)に大隅国守護職を譲って存続を図りました。
全く違う地域の名前がついているのは、師久が上総介、氏久が陸奥守に任じられていたからです。官位あるあるですね。
南北朝時代を乗り切った後、総州家と奥州家は一時期不和になりましたが、比較的早いうちに(少なくとも表向きは)解決できたため、尾を引かずに済みました。
学問を好んだ十一代・島津忠昌の頃、桜島の大噴火などによって領内が困窮。
内乱が起きた末に悩み抜いて自害してしまっています。勇猛なイメージのある島津氏では珍しく、ナイーブな人だったようです。
忠昌の長子・島津忠治が十二代当主となりますが、内乱を押さえきれず、その弟の十三代島津忠隆や、十四代・島津勝久も同様で、島津本家は弱体化の一途を辿ってしまいます。
こうなると一気に滅亡までか!
否、そこは後に「暗君なし」と呼ばれる島津家です。
島津氏の分家だった伊作家の忠良が、ここで頭角を表します。
「日新斎」の名で有名な人ですね。同じく分家である薩州家との闘いの結果、忠良とその息子・島津貴久が勝ち、同家を立て直します。
貴久は戦国時代で有名な「島津四兄弟」の父です。
一応、四兄弟とは
・島津義久
・島津義弘
・島津歳久
・島津家久
になります。
次は上杉氏を見てみましょう。
上杉氏
後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が鎌倉に下向して六代将軍に就任したとき、随行した藤原重房という公家が丹波国何鹿郡上杉荘(現・京都府綾部市上杉町)を領し、上杉氏を名乗り始めます。
「上杉氏」
というと、いかにも関東管領や謙信のイメージですが、元は公家だったんですね。
ついでにいうと上杉重房は藤原北家の流れを汲んでおり、紫式部や日蓮、日野氏などとも(ものすごく)遠い親戚となります。
「一応血が繋がっている」くらいの遠さです。
さらに遡ると伊達氏とも親戚。
後世の関係を見ると、因果というか因縁というか……。
重房の娘が足利頼氏(尊氏のひいじーちゃん)に、重房の孫娘・清子は足利貞氏(尊氏のトーチャン)に嫁ぎ、名門とみなされていきます。
尊氏の次男・基氏が若年で鎌倉公方になったときには、その補佐の一員として上杉氏四代(山内家初代)の上杉憲顕が選ばれました。
当初は斯波氏や畠山氏などもいたのですが、次第に上杉氏が関東管領の座を独占していきます。
しかし、彼等もまた色々な騒動を起こしてしまいます。
二代・頼重の息子たちから山内家(こっちが本家)と扇谷家、そしてその後さらに犬懸家という系統に枝分かれし、また鎌倉公方との関係によって、関東における戦乱の中心となるのです。
それが【永享の乱】とか【享徳の乱】になりますね。
享徳の乱の終盤あたりから山内家と扇谷家が仲違いし、家中での争いが勃発。このあたりの時代になると、全国アチコチで一族争いが頻発しています。
天文十五年(1546年)の河越夜戦では、扇谷家が北条氏康に滅ぼされたため、上杉氏の血筋は一応まとまりましたが……何とも嫌な展開。
その間に台頭してきた後北条氏に、関東のほとんどを奪われてしまいます。
扇谷上杉家は戦国時代に分家筋の長尾氏から景虎(上杉謙信)を迎えており、ここで血筋が多少変わります。
謙信自身は妻帯せず子供を持ちませんでした。
跡を継いだ上杉景勝は謙信の姉の子なので、長尾氏の系統であることは変わりません。
景勝が関ヶ原で敗北して以降は「米沢上杉氏」と呼ぶこともあります。
ここも現代まで続いている家の一つですね。
尼子氏
宇多源氏の血を引く家の一つです。
京極氏の四代目・佐々木(京極)道誉の孫である高久が、近江国甲良荘尼子郷(現・滋賀県甲良町)に住んだため尼子氏を名乗りはじめました。
高久の次男で尼子氏としては二代目の持久が、京極氏の出雲守護代となり、現地に定着。
持久の子・三代清定が、応仁の乱の時期に、領内の国人を押さえて勢力を強めていきました。
しかし、四代・尼子経久が跳ね過ぎた。
経久は、国人の支持をアテにしすぎて幕府の命令を無視。
主人・京極政経の寺社領を奪うわ、税金徴収を拒否するわで、幕府や京極氏はもちろん、国人たちからも反発を受け、守護代をクビになってしまうのです。
ただ、兵力まで奪われたわけではなさそうなので、そんな仕打ち、おそらくや屁の河童だったでしょう。
その後、京極氏でお家騒動が始まり、京極政経が落ち延びてきたときは快く迎え入れており、両者の関係修復を感じさせる展開となっています。
山陰地方の大部分を手に収めたのも経久の代でした。
経久の長男・政久が早くに亡くなったため、政久の長男・晴久が五代目の当主に就任。
晴久は山陽地方にも進出したのですが、大内氏や毛利氏との三すくみ状態になり、すぐには決着がつきませんでした。
そして大内氏を片付けた後、毛利元就と戦う中で晴久が急死し、跡を継いだ次男・義久が毛利軍へ降伏。
大名としては滅亡しましたが、その後は毛利氏の客分となり、一族もそれぞれ長州藩や水戸藩などに仕えて生き延びています。
「滅亡」と「全滅」は違う、ということがよくわかりますね。
朝倉氏
第九代開化天皇の孫・狭穂彦王(さほひこのみこ)、あるいは第三十六代孝徳天皇の孫・表米親王(うわよねしんのう)に始まる日下部氏の血を引くとされています。
日下部氏は平安時代から武士団を形成し、但馬に勢力圏を築いていました。
戦国大名として有名な系統朝倉氏の祖先は、但馬から越前に移り住んだ系統です。
足利尊氏が鎌倉幕府打倒の兵を挙げたとき、当時の当主・朝倉広景が源氏の血を引く斯波高経の下で戦うようになってから、歴史の大舞台に登場。
広景は新田義貞討伐で戦功を挙げ、その恩賞として黒丸城と斯波氏の家臣として越前に定着しました。
ちなみに、広景は正平七年=観応三年(1352年)に98歳という超長寿で亡くなっています。
公家だと80~90歳くらいまで生きた人はたまにいるのですが、この時代の武士ではかなり珍しい。江戸時代の武士ですら意外と短命だったりしますし。
話を戻しましょう。
広景の息子で朝倉氏二代の高景は、一時南朝方についていたものの、最終的には北朝方となって落ち着きました。
次に大きく動くのは五代・朝倉教景の代です。
上記の通り、朝倉氏の地元は当初から越前だったのですが、幕府の命令で関東の戦乱である【永享の乱】や【結城合戦】に出兵させられています。割とひどい話ですね。
応仁の乱では、主筋の斯波義廉が西軍だったため、ときの朝倉氏当主・朝倉孝景(敏景)も西軍につきました。
緒戦で戦功を挙げると、文明三年(1471年)に東軍から
「こっちに味方してくれれば、キミを越前の守護にしてあげるよ^^」(超訳)
と言われて寝返り。
【孝景の裏切りによって東軍が大きく有利になり、応仁の乱が収束に向かった】という見方もあるようです。
同時に、朝倉孝景は越前一国を実効支配するべく戦い、公家や寺社領まで横領したことから「天下一の極悪人」とまでいわれています。そりゃそうだ。
完全に越前を掌握したのは、孝景の子の八代・朝倉氏景です。
旧主・斯波義寛は当然「ふざけんな国返せ」(超訳)とクレームをつけたのですが、氏景は斯波氏より足利本家に近い家を担ぎ上げて名目を作り上げ、ゴネまくりました。
義寛も幕府もこれを跳ね返す策が思いつかず、そのままナァナァとなり朝倉氏の越前支配が確立しました。
九代・朝倉貞景の代には一族内の内紛や、若年での相続などによるトラブルもありつつ、名将・朝倉宗滴などの力によって家と領地を保ちます。
十代・朝倉孝景(七代・孝景と同名です)の頃には国内は安定し、また孝景自身が文治的なタイプだったことにより、多くの公家を領内に招くなどしました。
その安定性が買われたのか。
十三代将軍・足利義輝が暗殺されると、弟・足利義昭が朝倉氏の下へ落ち延びてきています。
当時の当主である十一代・朝倉義景は義昭を庇護し、上洛の名目にしようと一応は考えていたようです。しかし……。

朝倉義景/wikipediaより引用
早く上洛して実権を取り戻したい義昭と、他の狙いがある義景とは考え方が合わず、義昭は細川藤孝(幽斎)らの勧めで織田氏のもとへ。
少しだけ義景をフォローしておくと、同時期に幼い嫡男・阿君丸が亡くなり、政務にもヤル気を失っていたため、いくら将軍様とはいえ兵を動かす気力が湧いてこないのも仕方ないかもしれません。
阿君丸が亡くなって二ヶ月後には若狭に手を出していますが、その後から内政へのやる気もなくしていますし。
そして、信長が義昭を擁してアッサリと上洛。朝倉氏は完全に大義名分を失いました。
信長から「もう将軍様が京に戻ったんだから、(同じくらい力がある俺にも)従うように」という知らせが来ても、義景は腰を上げません。
結果、織田氏に付け入るスキを与えてしまいます。
義景としては、これにより織田氏と浅井氏の同盟が破棄され、浅井氏が自分に味方して挟撃できるから問題ないと考えていたようです。
その結果はご存知のように、真逆となるんですけどね。
朝倉氏も浅井氏も信長に本拠を攻められ、当主は自害、戦国大名としては滅びてしまいました。
遠縁といわれる朝倉在重の系統から、江戸幕府の旗本として存続した家がありますが、これは生き残ったといっていいのかどうかビミョーなところですね。
三好氏
先祖は鎌倉時代の小笠原長清という人物です。
清和源氏の血を引いており、その父である加賀美遠光の所領のひとつ・甲斐国小笠原を相続したため小笠原氏を名乗りました。
後に有職故実の「小笠原流」で有名になる、格式高い家です。
長清の孫の代以降、小笠原氏はかなり複雑に枝分かれしていて、三好氏の祖となった三好義長もその一人です。
彼が阿波国三好郡芝生(しぼう)(現・徳島県三好郡三野町)に住んだことから三好氏を名乗るようになったとされています。
南北朝時代のことなので、室町・戦国時代当時の感覚としては、比較的新しい家だったのでしょう。
三好氏は当初南朝方についていました。
そして義長の代までに細川頼之(室町幕府二代管領・足利義満の忠臣)に降ったので、細川氏との繋がりが深くなっていきます。
義長の子・長之は三好郡、美馬郡、麻植郡(いずれも阿波)の守護代を任されたこともありました。
そのため、応仁の乱でも細川勝元(東軍)についています。
応仁の乱が終わった頃は、三好長之の子・三好之長の代になっていました。

三好之長/wikipediaより引用
どうでもいい話ですが、もうちょっと区別しやすい名前にしてほしいものですね(´・ω・`)
細川氏の内紛については、永正四年(1507年)に(細川政元を暗殺して家督をついだ)澄元に味方しています。
ところが、明応の政変で京都から追い出された足利義稙と、それを担ぐ大内義興が兵を挙げたことに始まる戦いで、之長は最終的に捕らえられて斬罪になってしまうのです。
之長の長子・長秀や、長秀の長子・元長も。
京都や細川氏の内紛絡みの戦と一向一揆に敗れて自害に追い込まれます。
その中で、元長の長子・三好長慶が幼少だったため戦に参加せず、母と共に阿波へ戻り、難を逃れました。
もしも長慶が帰っていなかったら、三好氏の命運もその後の歴史も大分変わっていたでしょう。
阿波がこの一連の戦に巻き込まれなかったためか。
長慶は比較的家臣に恵まれていたようで、元服前に一向一揆と細川晴元の間に入って和睦を成立させています。
その直後に元服し、10代前半のうちから活躍して頭角を現し、一時は畿内・四国八カ国を支配して三好全盛期を築き上げます。

三好長慶/wikipediaより引用
しかし、ほどなくして運命は激変。
唯一の息子・義興を早くに亡くし、弟・十河一存の子である三好義継を養子に迎えてからは、定番のトラブルモードへ。
義継が養子に来た頃には、既に親戚の三好三人衆や松永久秀らが実権を握り、また織田信長が台頭していたため、いかんともし難い状況でした。
天正元年(1573年)、織田家の重臣・佐久間信盛に攻められ、義継は自害して果てます。
伊達氏
元の出身は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘だといわれています。
ここは藤原北家の荘園でした。
直接の祖先は、藤原北家魚名流・中村光隆とされています。
光隆の妻が源義朝のきょうだいだったため、源氏との結びつきができたようです。
伊達氏の初代となった伊達朝宗(光隆の息子)は、その縁から鎌倉幕府の御家人となり、奥州合戦(奥州藤原氏征伐)に参加しました。
この戦いで戦功を挙げ、陸奥国伊達郡(現・福島県北東部)を与えられたため「伊達氏」を名乗るようになります。
「藤原北家の流れを汲むというのは、あくまで伊達氏の自称」という説もありますね。
十七代・伊達政宗(独眼龍のほう)が小さい頃、祖父・伊達晴宗の前で和歌を披露したことがあるなど、和歌や文化を重視する家風であり、たとえ藤原北家でなかったとしても、それなりに教養のある家が元になっているのは間違いありません。
伊達氏は陸奥の他に下野・常陸・出雲・但馬・伊勢・駿河・備中・上野・出羽・越後など、各地の地頭職を得ていました。
この時期に枝分かれした一族も多く、その中から江戸時代に旗本になった系統もあります。
南北朝時代の当主である七代・伊達行朝(ゆきとも)は南朝方につきましたが、その息子の八代・伊達宗遠は北朝に降伏。
領地拡大を目指して周辺の長井氏を攻め滅ぼしています。
宗遠の子である九代・伊達政宗のときは、三代めの鎌倉公方・足利満兼や会津の蘆名満盛と領地を巡って戦いました。
九代・政宗は亡くなる三年前まで鎌倉府と三回も戦っていて、結果、伊達氏の実効支配地域が広がったため「中興の祖」とされています。
お笑いコンビ・サンドウィッチマンの伊達さんが、こちらの子孫だということはNHK『ファミリーヒストリー』でも取り上げられておりましたね。
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著名なほうの政宗(十七代)は、そもそも、この中興の祖にあやかって名付けられました。
というか、彼等のやってることを見ると、九代も十七代もあんまり変わりませんね。十七代が九代を意識して行動をなぞったのか、それとも性格的に似ていたのか……両方でしょうか。
室町時代の奥羽は鎌倉府の管轄です。
時代が進んで斯波氏が奥州・羽州探題を世襲するようになると、伊達氏はその配下という立ち位置になりました。
しかし、享徳の乱などによって幕府と鎌倉府の関係が悪化すると、伊達氏は幕府に接近し、幕府軍の一員として動くようになります。
永享十年(1438年)永享の乱では、幕府から鎌倉公方の討伐命令を受けたこともありました。
当時の当主は十一代・伊達持宗です。
生涯に二度上洛し、黄金を献上したり、将軍から偏諱を賜るなどして、伊達氏と足利将軍家との結びつきを強めた人物です。
以降は五代に渡って、伊達氏当主が元服時に将軍から一字もらうのが慣例となりました。
応仁の乱が終わった後の文明十五年(1483年)、十二代・伊達成宗が上洛し、足利義政・日野富子夫妻に砂金・太刀・馬などを献上しています。
元が(おそらく)公家の末裔だからなのか。
地元での結びつきよりも、中央との繋がりを意識した「遠交近攻」を重視した家柄のようですね。
その甲斐あってか、十四代・伊達稙宗が陸奥守護の座を幕府に望むと、聞き届けられてそのとおり補任を受けています。
また、本来は奥州探題を世襲してきた大崎氏が受けるはずの「左京大夫」の官位も授かりました。
この二つは、幕府が「これから奥州のことは伊達氏がまとめておk」と認めたも同然です。大義名分を得た稙宗は、積極的に大崎市や最上氏に介入し、勢力を大きく広げました。
また、自分の娘を周辺の武家に押し付けて姻戚関係を結んでいます。
……が、ワンマンすぎて家臣や息子・晴宗から大反発をくらい、家中どころか奥州を真っ二つに割る「天文の乱」を招きました。
これも以前の記事がありますので、気になる方はそちらで。
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伊達稙宗の生涯|天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱に巻き込んだ政宗の曾祖父
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このせいで、伊達氏はせっかく広がった勢力圏の大部分を失い、家督を継いだ十五代・伊達晴宗とさらにその息子である十六代・伊達輝宗は、領土奪還のための戦いに明け暮れることになります。
稙宗の婚姻政策によって奥州のほとんどが多少なりとも親戚になっていたため、「雪解けから初雪までダラダラ戦っては撤兵」みたいな状態が長く続き、一向に終焉が見えませんでした。
それを断ち切ろうとしたのが十七代・政宗です(独眼龍・大河ドラマで有名なほう)。

伊達政宗/wikipediaより引用
幾多の危機を迎えながら、正室・愛姫の実家(田村氏)以外のほぼ全てにケンカを売っては勝ち、伊達氏史上最大の領土を獲得しました。
しかし、時すでに遅し。
上方では既に豊臣秀吉が関白になっており、惣無事令(秀吉が討伐令を出してない戦は全て私闘なので処罰する)という法律が出されます。
政宗は当初これをガン無視しようとし、さらに策動を続けようとしたのですが、結局バレて減封&国替えされ、生地・米沢から岩出山(現・宮城県大崎市)に行かざるを得なくなりました。
政宗は秀吉死後、徳川家康に接近し、関が原の戦いにおける地方戦のひとつ・慶長出羽合戦でも家康方として、上杉氏と戦いました。
その恩賞として仙台62万石を得ています。
死ぬまで天下奪取を諦めていなかったような話もありますが、息子・伊達忠宗が温厚すぎたせいか、結局実行には移さずに終わりました。
余談ですが、「伊達」は元々「だて」という読みではなかったとされています。
伊達氏の由来である陸奥国伊達郡の「伊達」という地名は、古い時代には「いたて」「いたち」と呼ばれており、十七代政宗も「いだて」と名乗っていたそうです。
慶長遣欧使節で支倉常長に持たせたローマ教皇宛ての書簡でも「Idate」と書かれています。
しかし、山科教言や万里小路時房など、南北朝時代あたりの公家が日記中で伊達氏のことを「たて」=「だて」と記しているため、上方もしくは宮中ではこちらの読み方が定着していたのかもしれません。
そのためか、江戸時代には「いだて」「だて」が混在。上方の読み方が主流になった時期は定かではありません。
明治維新あたりが一番タイミングとして有り得そうな気がしますが、どうでしょうね。
伊達氏も現代まで続いている家なので、自分で音頭取りをしたなら記録がありそうなものですが。
見落としてるだけだったらスミマセン。
浅井氏
元は近江国浅井郡の豪族・浅井氏でした。
読み方は「あさい」ではなく「あざい」と濁ります。
近江の豪族には公家の庶子が婿入りすることが多かったといわれており、浅井氏も藤原北家閑院流・正親町三条家(嵯峨家)の支族から婿入りした人がいたところから始まると考えられています。
身分としては、近江守護で北近江を領有していた京極氏の譜代家臣で、小谷城が本拠。
浅井氏四代・浅井亮政(あざいすけまさ)の時代に京極氏でお家騒動が発生し、浅見氏を中心とした国人衆主導の政治が始まります。
今度は浅井じゃなくて浅見。ややこしいですね。
その浅見氏を浅井亮政が追放して京極氏を傀儡化、京極氏の家臣を取り込んで戦国大名化したというのが通説です。
ほどなくして元主家の兄弟分ともいえる南近江の六角氏と対立して、助力を得るために越前の朝倉氏と同盟を結びました。
亮政の子・浅井久政の代には、京極氏の再興ならびに六角氏や斎藤氏の台頭があり、浅井氏はより難しい立場へ追い込まれていきます。
そこで大切になったのが、朝倉氏との同盟関係。
特に六角氏からの圧迫は強く、久政の息子・新九郎は無理やり六角家臣の娘を押し付けられたり、当時の六角氏当主・義賢の「賢」をとって「賢政」と名乗らされたりしています。
面子が命同然だったこの時代、これは凄まじい侮辱です。
賢政は六角氏の影響から脱出すべく、妻を送り返して決戦を挑み、大勝利を収めました。
更には、この勢いに乗って、ゴネる久政を強制的に隠居させ、名を「長政」と改めます。
信長の弟として有名な浅井長政の誕生です。
長政は、当時、急速に勢力を強めてきた織田信長と同盟を結び、その妹・お市を妻に迎えました。
浅井氏は朝倉氏と織田氏、それぞれとの同盟によって背後の憂いを断てた……はずでしたが、困ったことに織田氏と朝倉氏の関係が悪化します。
この辺の状況をものすごく雑に表現してみます。
浅井氏は、朝倉氏と織田氏のことを「友達の友達だから全員友達」と思っていた。
しかし、織田氏は他の二家について「友達の友達って他人じゃね? だから攻めてもおk」と考えていた。
そんな感じですから、当然、間に挟まれた長政以下、浅井家中は大混乱。
久政や老臣たちが朝倉氏との同盟関係を強調し、結局、長政は、その路線を取らざるを得ませんでした。
トーチャンたちの反対を押し切って織田氏と同盟を結んだのは長政なので、ここで「まだ織田を信じる」とは言えなかったのです。

浅井長政/wikipediaより引用
こうして長政は織田氏との同盟を破棄。
突如裏切って【金ヶ崎の退き口】の追撃戦に参加したり、朝倉氏と共に【姉川の戦い】で織田氏と戦いました。
その後は本願寺や足利義昭の主導で織田包囲網に参加。
しかし、武田信玄の病没などで一角が崩れると、信長は本拠地・小谷城へ侵攻し、ついに浅井長政・浅井久政親子は自害して果てるのです。
戦国大名としての浅井氏、ここに滅亡。
されど女系での血筋は残り続けます。
長政と信長の妹・お市の方の間に生まれた、いわゆる「浅井三姉妹」の末妹・お江(お江与)を通じて徳川氏に繋がるからです。
他に、長政の祖父・久政の妹である鶴千代(海津殿)の子孫が続きました。
毛利氏
先祖は、源頼朝の側近・大江広元と伝わる。
広元の四男・季光(すえみつ)が、当時の本拠地だった相模国毛利荘(現・神奈川県厚木市)の地名を取って「毛利」と名乗ったのが同家の始まりでした。
毛利季光は承久の乱で戦功を挙げ、鎌倉幕府の評定衆となった重臣中の重臣。
ときの執権・北条時頼(時宗のトーチャン)の舅でもありました。
しかし、季光の妻が同じく鎌倉幕府の重臣・三浦氏の出身だったことで事態は一変します。
他の重臣を滅ぼしたい北条氏と、それに抵抗しようとする三浦氏の間で武力衝突が起き、宝治合戦になってしまったのです。
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北条時頼(義時の曾孫)五代目執権に訪れた難局~三浦一族を倒して北条体制を強化
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毛利季光は三浦氏方についたのですが、もともと武力解決には消極的だった三浦泰村が戦意を失くし、源頼朝の法華堂にて一族で腹を切ることに決めました。
出家していた季光は念仏を唱える役を務め、同じく三浦氏についていた息子たちと共に腹を切っています。
しかし、このときたまたま季光の四男・経光が越後国佐橋荘(現・新潟県柏崎市)に行っていたために、一族全滅は回避。
「毛利」の由来である相模国毛利荘は取り上げられてしまったものの、越後や安芸の領地は許されています。
安芸を相続したのが、経光の四男・毛利時親でした。
彼は鎌倉時代末期の人で六波羅評定衆を務め、途中から足利尊氏(北朝)について生き延びます。
建武の新政では他の武士と同様、安芸の所領を奪われてしまいましたが、力ずくで奪還し、建武三年(1336年)七月に現地へ向かいました。
南朝方についていた一族も国元に迎え、ここからが今日イメージする毛利氏の始まりとなります。
毛利氏は代々多産な家系で、そのたびに分家したり領地を分割してます。
その割には内紛が少ないのが特徴。
大名家で「ほとんどの当主に子供がいる」というのは、実は結構珍しい話ですね。江戸時代以降は生活環境の変化などによって、また変わってきますが。
しかし、さすがの毛利氏も、応仁の乱とそれ以降の混乱期では身の振り方に困りました。
特に細川氏・大内氏・尼子氏がそれぞれ勢力を強めてからは、ときの当主・毛利弘元は大いに悩みます。
迷った末、弘元はまだ年齢一ケタの長男・毛利興元に家督を譲ることで解決しようとしました。
その興元も、若い頃からの苦労と酒が原因で早世。一時は、興元の遺児・幸松丸が当主となり、興元の弟である毛利元就が後見する形を取りました。
しかし、幸松丸もまたほどなくして世を去ったため、押し出されるようにして毛利元就が当主に就任します。

毛利元就/wikipediaより引用
その後は大内氏や尼子氏を打ち破って、新たに中国地方の雄という立ち位置を確立。
九州の大友氏とも戦いました。
元就死後も、織田氏との対立や豊臣政権へ組み込まれるなどの困難を乗り越えながら、関が原の戦いで西軍総大将に担ぎ上げられ所領は1/3という大減封。
家康としては完全に潰しておきたかったんでしょうけどね。幕末にその悪寒は当たってしまいます。
毛利家は、江戸時代を通しても大きなお家騒動は起きていません。
藩主に子供が生まれなくても、江戸時代までの間に分家や家臣になっていた血縁者がたくさんいたので、養子に困らなかったからでしょう。
多産は何かと強いですね。
長宗我部(長曾我部)氏
秦の始皇帝の末裔・秦河勝の子孫と自称しています。
大内氏と同じく渡来人の末裔かもしれません。
平安時代末期~鎌倉時代初期に土佐国長岡郡宗部郷(現・高知県南国市)に移り住み、このあたりの東側に住んでいた香宗我部氏と区別するために「長宗我部」と名乗り始めたとか。
代々を土佐で過ごし、七代・長宗我部兼光のころ多くの庶流に枝分かれしました。
十一代・長宗我部信能が足利尊氏に属したことから、南北朝時代は北朝方として活動していたようです。
余談ですが、十五代目の当主も「元親」です。
戦国大名として有名なほうは二十一代目。同姓同名が密かにご先祖さまにいる――って、伊達政宗みたいですね。

四国を統一した二十一代目の長宗我部元親/wikipediaより引用
織田信長は元親のことを「鳥なき島の蝙蝠」と呼んだため、フィクション作品で「田舎大名」と言われることのある長宗我部ですが、元親の進軍後、あっという間に四国を制圧さいたチカラは凄まじいものがありますね。
話を元に戻しまして、細川氏が土佐国守護代になった時代には、その下で現在の高知市の寺奉行を務めていました。
しかし、細川氏との結びつきがあったがために、その衰退の影響をまともに食らってしまいます。
十九代・兼序のときに周辺豪族の連合軍に攻められ、本拠・岡豊城(おこうじょう)は落城。
兼序は自刃し、息子・国親は幡多郡中村(中村市)の一条氏(土佐一条氏)の元に逃れ、ここで成長します。
一条氏は、れっきとした藤原北家の一員であるあの一条氏です。
応仁の乱の戦火を避けて、荘園だった土佐に移住してきた家であり、朝廷から正式に官位と土佐国司の職を与えられていました。
そのため、一条氏の当主(当時は一条房家)が
「長宗我部国親も成人したし、この機会に城を返してやれ」
と言えば、豪族たちは従わざるを得ません。
こうして一条氏のおかげで長宗我部氏は岡豊城に復帰したのですが、国親の子・元親は土佐統一、及び四国制覇のために一条氏を攻めています。

国親に城を取り返してやった頃と当主が変わっていた(この時点では房家の孫・兼定)こと、その兼定の能力がアレだったことから、悩んだ末に一条氏攻めを決めたようです。
そこで……やってきたのが次なる脅威・織田でした。
信長の進出は、四国と長宗我部に大いなるプレッシャー。
一時は、【本能寺の変】で難を逃れたかと思ったら、結局、豊臣秀吉に攻められ降伏せざるを得なくなりました。
降伏した代わりに土佐だけは安堵されましたが、元親はさぞ悔しかったでしょうね。その後も……。
大きな特徴は「分国法」での独立
好きな家がなかった方はスミマセン。お疲れ様でした。
戦国大名の特徴としては、家中の統一を図るために、【分国法】という自分のシマ内にのみ適用される法律を作っていることも挙げられます。
その先駆けとなったのが、細川政元の作った「細川政元式条」です。
五カ条のごく短い条文でしたが、これ以降、各地の大名が法を作るようにったので意義は大きい。
有名どころでは、今川氏の「今川仮名目録」、伊達氏の「塵芥集」、長宗我部氏の「長宗我部元親百箇条」などがあります。
分国法の多くが、中世の基本法である鎌倉幕府以来の「御成敗式目」をベースとしていることにも、注目すべきところでしょうか。
例えば
「喧嘩両成敗」
「他国の人間との結婚は禁止」
「大名家家臣と百姓の関係」
などが含まれています。
ちょっとおもしろいのが、下人の逃亡や帰属について規定があるところです。
当時、身分の低い使用人の夫婦は、別々の主人を持っていることも珍しくありませんでした。現代では「夫婦で違う職場」というのはごく普通のことですし、それでトラブルになることもそうそうないですよね。
室町・戦国時代の場合、夫婦仲がうまく行っているうちはいいのですが、お互いの主人の家を巻き込んでトラブルになることもままあり、武家だけでなく公家も頭を悩ませるケースがチラホラあったようです。
また、こうした夫婦の間に子供が生まれた場合、男子なら父親の主人の家、女子なら母親方の主人の家に所属することになっていました。
これも鎌倉幕府以来の慣例だったようです。
分国法についても、以下に個別記事をまとめました。
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戦国大名の「分国法」には何が書かれている?今川・武田・伊達を例に見てみよう
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戦国大名というと、まるで戦しかしていない印象もありますが、武士の成り立ちや鎌倉時代からの流れを追っていくと、領主として確実に進化していることがわかりますね。
なにせ鎌倉時代に入った時点で文字を読める武士は「珍しい」レベルだったのですから。
そんなレベルから300年で法律まで自作できるようになった――って素晴らしいと思いませんか。
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【参考】
国史大辞典
守護・戦国大名・武田氏・今川氏・佐竹氏・細川氏・六角氏・北畠氏・大内氏・大友氏・島津氏・上杉氏・織田氏・尼子氏・朝倉氏・三好氏・伊達氏・松平氏・徳川氏・浅井氏・毛利氏・長宗我部氏・北条氏・斎藤氏・松永氏
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