帰雲城

帰雲城趾碑/photo by NALA Wiki (talk) Wikipediaより引用

戦国諸家

一晩で土中に消えた帰雲城と戦国大名・内ヶ島氏理~当時最大クラス天正地震の恐怖

2024/11/28

日本は地震大国です。

おそらく有史以前からずっと揺れ続けており、当然ながら戦国時代も幕末も大地震が頻発。

当時の政局にも影響したのではないか?という程です。

天正十三年(1585年)11月29日に発生した【天正地震】もそうした大地震の一つでしょう。

今回はこの地震が与えた影響と、不幸にも一晩で山中に呑まれてしまい、帰雲城(かえりくもじょう・きうんじょう)と共に消え去ってしまった内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)たちの悲劇を振り返ってみたいと思います。

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秀吉の天下統一すこし前

天正十三年(1585年)と言えば、豊臣秀吉が紀州征伐をやったり関白になったりした年でもあります。

九州征伐の前ですから、まだ日本全国の天下統一には少し時間があるときですね。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

地震前後から天下統一までを秀吉の年表でざっと確認してみると、

1583年6月 北ノ庄城の戦い(47才)

1583年 大坂城築城開始

1584年 小牧・長久手の戦い

1585年3月 紀州征伐

1585年7月 関白就任

1585年7月 四国平定

1585年9月「豊臣」姓を賜る

1585年11月 天正地震

1586年12月 太政大臣就任

1587年5月 九州平定

1587年7月 バテレン追放令を出す

1588年7月 刀狩令

1590年3月 小田原征伐(54才)

1590年8月 奥州仕置→天下統一

慌ただしく時代が動いていながら、地震が起きた1585年11月以降、1年半以上、大きな合戦がありません。

さほどに天正地震の規模は大きいものだとも考えられますよね。

現代日本でも東日本大震災が起きた直後は、人々の意識や生活スタイルがかなり変わっていました。

 


推定マグニチュード7.8

天正地震の規模は、推定マグニチュード7.8。

畿内エリアから東海、北陸にわたって震度5-7レベルで広がっているのが各機関の研究レポートから見てとれます。

実際、美濃付近を中心として本州をぶったぎるような範囲で被害が出ており、津波の記録があるだけでも若狭湾、伊勢湾、三河湾と続き、はるか遠い三陸でも影響を受けたとか。

明治24年(1891年)10月28に発生した濃尾地震はM8.0と推定され、内陸地震では国内最大級の規模とされておりますが、天正地震も震度分布パターンなどは非常に似ているという観測もあります。

濃尾地震の被害/wikipediaより引用

他にも天正地震の後に、焼岳(長野県)が噴火したとか、12日間も余震が続いたとか、これを皮切りに日本列島で大地震が頻発したとかいろいろいわれています。

加藤清正の逸話「地震加藤」で有名な【慶長伏見地震】も、この後、文禄5年(1,596年)に起きています。

加藤清正/wikipediaより引用

しかし、天正大地震で一番有名なのはおそらく帰雲城(飛騨国)の話でしょう。

やたらとカッコイイ名前ですが、なんとこの地震で

「城下町ごと流されて埋没してしまった」

とも言われる、恐怖の城なのです。

 

飛騨の山中の「帰雲城」が消えた!

帰雲城は岐阜県大野郡にありました。

まずは地図で確認しておきますと……。

石川県との県境近くにあり、奥深い山中にあることが想像できますね。

そんなエリアに建っていた帰雲城は、天正地震により、城主の内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)も領民も、何もかも全部まとめて土の下へ。

助かったのは、たまたま旅に出ていたごく数名だったそうで……旅から帰ってきて城も家もなくなってるとか、ほんと震えるどころの騒ぎじゃなかったでしょう。

実際、この地震で内ヶ島一族は滅亡しております。

「埋まっただけなら発掘調査できるのでは?」

そうとも思えますが、土砂崩れと川の氾濫が両方起きたとされ、城の正確な位置も推定であり、今もハッキリしておりません。

なんせ土砂崩れの起きた場所が一番良く見える位置に「帰雲城跡」の碑が立っているだけで、そこで遺構や人骨などが見つかったわけではないのです。

白川村のHPなどに掲載されておりますが、何というか、……すごく、絶(句する光)景です……。

一晩で消えた帰雲城の跡とされる場所/白川村役場HPより

流石に少しずつ木が生えてきているものの、ほとんどは削れた土がむき出し。

これだけの土砂が流されてきたら、もう人の存在など無力でしかありません。

しかし、妙なもんで埋蔵金伝説だけが残っていたりします。

 

金山を隠し持っていたんでは?

上記の地図をご覧のとおり、帰雲城があったエリアは飛騨の奥深い山脈エリアです。

周りに、お金を産みそうな産業はありません。

にもかかわらずこんなところに城を建てたことから「実は、金山を持ってて、それでやりくりしてたんじゃね?」と勘ぐられたんですね。

それで埋蔵金伝説が生まれ、多くのロマンティストの関心を集めました。

実際に発掘をしている人もいるようですが、あまりにも手がかりが少なく費用もかかるため、まだ決定的なものは見つかっていないようです。

金より先に人骨が出てきたり?

シュリーマン(トロイア遺跡を見つけたはいいけどボロボロにした人)みたいな人が出てくれば見つかるかもしれませんが、いつになるやら。

帰雲城という名前は背後の帰雲山からとったもので、「流れる雲はこの山頂に行き着くと、元来た空に帰る」という伝説が大元だそうです。城が帰ったのは土でしたけど。

ちなみに帰雲城は、世界遺産で有名な白川郷のごく近くにあります。

日本で一番美しい村と、日本で(多分)唯一埋もれた城が同じ範囲にあるというのは何だか不思議ですね。

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【参考】
国史大辞典
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon
歴史地震研究会(→link
白川郷(→link
朝日新聞(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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