永禄七年(1564年)2月6日は、稲葉山城乗っ取り事件があったとされる日です。
美濃国・斎藤家の家臣である竹中半兵衛が、主君・斎藤龍興を諌めるために手荒な手段で知らしめた――とされる一件ですね。
龍興があまりにもアホだったので、半兵衛よぅやった!ともされているこの件、実は真偽の程は今も不明。
半兵衛の忠義心と頭脳を称える逸話として今に伝えられ、それは以下のような話でした。
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すべての不幸は義龍の思い込みから始まった?
事の発端の発端は、乗っ取り実行日から三十年以上も遡ります。
龍興にとっては祖父にあたる斎藤道三が、当時の主君・土岐頼芸(ときよりあき)から、妾の女性を譲り受けました。
深芳野(みよしの)です。
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一応きちんと譲られたのでこのときは特に問題はありませんでした。
しかし彼女が道三の子供=斎藤義龍(龍興にとっての父)を産んで十数年すると、義龍の心にある疑念が生まれてしまいます。
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『自分の父親は、道三ではなく土岐頼芸だったりしないか?』
現代では民法で「女性は離婚後6ヶ月経たなければ再婚できない」として、子供の父親がわかりにくくなるのを防いでいますが、戦国時代にそんなものはなく、こうした問題は当然のように起こり得ます。
周囲に当時の状況を尋ねてみても、ある者は「その通りです」と言い、またある者は「いやいや、道三様はかなり早くから深芳野と通じてましたから」と言い、真偽の程は不明でした。
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ちなみに今でもはっきりしません。
そのためこの疑念は、義龍が成長するにつれ大きくなりました。
それにつけこむ家臣もおり、道三もそのことには気付いていたと思われます。
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それでも生かしていたあたり、道三は自分の子だと思っていた気がしますね。
あるいは義龍が【美濃の正当的支配者である土岐氏の血筋】というアピールに使ったという見方もできるかもしれません。
道三を死に追いやった義龍自身が5年後に死亡
いずれにせよ義龍は「自分は土岐頼芸の子であり、道三は父の仇だ」というスタンスを取るようになります。
そして”父”に対し下克上を起こし(長良川の戦い)、居城だった稲葉山城だけでなく、財産や命も奪ってしまったのでした。
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しかし天罰が当たったのか。
義龍はその後5年ほどで急死。
まだ十四歳だった息子の龍興が後を継ぐと、後々のことなど何も決まっていなかったため、斎藤家は荒れに荒れました。
ここでやっと半兵衛の話になります。
彼は斎藤家に仕え、この時点で既に織田家との戦いを勝利に導いたこともありました。
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性格的にも真面目で実に有能な家臣とされますが、周囲から嫉まれていたせいか、日ごろの放蕩癖からなのか、義龍にいろいろ諫言しても聞き入れてもらえません。
そこで舅の安藤守就という人物と作戦を練り、
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稲葉山城を占拠するという荒業で斎藤龍興に目を覚ましてもらおうとしたのでした(あくまで言い伝えベースでの話です)。そして……。
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