後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

斎藤家

稲葉山城乗っ取り事件~天才・半兵衛を有名にしたアノ伝説とは?

永禄七年(1564年)2月6日は、稲葉山城乗っ取り事件があったとされる日です。

美濃国・斎藤家の家臣である竹中半兵衛が、主君・斎藤龍興を諌めるために手荒な手段で知らしめた――とされる一件ですね。

龍興があまりにもアホだったので、半兵衛よぅやった!ともされているこの件、実は真偽の程は今も不明。

半兵衛の忠義心と頭脳を称える逸話として今に伝えられ、それは以下のような話でした。

 

すべての不幸は義龍の思い込みから始まった!?

事の発端の発端は、乗っ取り実行日から三十年以上も遡ります。

龍興にとっては祖父にあたる斎藤道三が、とある女性をもらいました。当時の主だった土岐頼芸(ときよりあき)の妾・深芳野(みよしの)です。

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一応きちんと譲られたのでこのときは問題なかったのですが、彼女が道三の子供=斎藤義龍(龍興にとっての父)を産んで十数年すると、義龍の心にある疑念が生まれました。

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『自分の父親は、道三ではなく土岐頼芸なのではないか?』

現代では民法で「女性は離婚後6ヶ月経たなければ再婚できない」として、子供の父親がわかりにくくなるのを防いでいますが、戦国時代にそんなものはありませんから、これも当然のことです。

周囲に当時の状況を尋ねてみても、ある者は「その通りです」と言い、またある者は「いやいや、道三様はかなり早くから深芳野と通じてましたからなあ」と言い、真偽の程はわかりませんでした。

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ちなみに今でもはっきりしません。

そのためこの疑念は、成長するにつれ大きくなりました。それにつけこむ家臣もおり、道三もそのことには気付いていたと思われます。それでも生かしていたあたり、道三は自分の子だと思っていた気がしますね。

あるいは義龍が【美濃の正当的支配者である土岐氏の血筋】というアピールに使ったという見方もできるかもしれません。

 

道三を死に追いやった義龍自身が5年後に死亡

いずれにせよ義龍は「自分は土岐頼芸の子であり、道三は父の仇だ」というスタンスを取るようになります。

そして”父”に対し下克上を起こし(長良川の戦い)、居城であった稲葉山城はもちろん、財産や命さえ奪ってしまったのでした。

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しかし天罰が当たったのか、義龍はその後5年ほどで急死。
まだ十四歳だった龍興が後を継ぐと、後々のことなど何も決まっていなかったため、斎藤家は荒れに荒れました。

ここでやっと半兵衛の話になります。

彼はその頭脳でもって斎藤家に仕え、この時点で既に織田家との戦いを勝利に導いたこともありました。

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もちろん性格的にも真面目で実に有能な家臣だったのですが、嫉まれてか日ごろの放蕩癖からか、義龍にいろいろ諫言しても聞き入れてもらえません。

そこで舅の安藤守就という人物と作戦を練り、稲葉山城を占拠するという荒業で斎藤龍興に目を覚ましてもらおうとしたのでした(あくまで言い伝えベースでの話です)。

 

龍興「お前ムカツクからクビ!!」

半兵衛は「城内にいる弟が病気になったと聞いたので、良い医者を連れてきた」とウソをついて、城内にわずかな手勢で入り、龍興をダメな方向へそそのかしていたアホ共に対して無双を繰り広げます。

とはいえさすがに主君は殺さず逃がしました。
この時点でただの暴挙でないことはわかりますね。

しかし、聞く耳持たぬ相手に何を言っても無駄だというのは古今東西のお約束。
半兵衛も多分薄々気付いていたでしょうが、それでもいきなり出奔しなかったあたりが忠臣でした。

元々下克上を起こすためではなく、エクストリーム諫言として城をぶん捕っただけなので、半年後には自ら龍興に詫びを入れて城を返すのです。

結局、龍興は「お前ムカツクからクビ!!」(超訳)と言い出して、この切れ者家臣を放り出してしまいます。

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斎藤家の凋落と織田家の躍進が始まった

これを機に半兵衛は、美濃から離れて隠遁生活に入りました。

その後、秀吉がいわゆる「三顧の礼」で家臣にしたといわれていますが、おそらくこれも脚色でしょうね。
なにせ彼は、稲葉山城の主になっていた間、織田信長からの「お前すげえな! 城ごとウチのモンになれよ!」(超訳)という誘いを断った、なんて逸話も伝えられております。

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つまり「秀吉のほうが信長より人望があったんだよ!」と暗に強調するため、後に創作したエピソードと受け取ることもできるわけです。

どの武将にもよくありますが、豊臣秀吉の場合、出自と出世ぶりを正当化するための逸話が特に多いですからね。

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「母親が太陽を身ごもる夢を見て生まれたので幼名を日吉丸にした」とか「半兵衛は秀吉に将来性を感じた」とか「信長より秀吉のほうが性格的に好きだったから」とか・・・。はてさて。

何はともあれ、この件を契機として斎藤家はそれまでにも増して傾き、優秀な家臣を得た秀吉やその主・信長は躍進していくのでした。

龍興と信長・秀吉を比較すると、人間生まれつきいろいろ持っていると判断力が育たず、逆に何もなかったり境遇に恵まれないと知恵を絞るものだという良い教訓になりますね。

半兵衛は(逸話上)規格外過ぎて凡人の参考にならないというか何というか。

長月 七紀・記

【参考】
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
竹中重治(竹中半兵衛)/Wikipedia

 



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