戦国時代の斎藤家や織田家、明智家を描くなら絶対に欠かせない。
それが大河『麒麟がくる』で片岡京子さんが演じた小見の方――信長の妻・帰蝶の母であり、斎藤道三の正室でもある女性です。
ドラマでは、第一回放送で病気の身ながら出演し、彼女の診察のため明智光秀が堺から医師を連れてきたりして注目されたりもしましたが、劇中からは早々に消えてしまいました。
しかし、最近の史料研究から、小見の方は意外に長生きしたのでは?という見方も浮上してきています。
従来、彼女の情報は、江戸時代に描かれた歴史書『美濃国諸旧記』に頼りがちだったのですが、別の史料からもその存在が示唆されるようになったのです。
信長の義母にもあたる女性は一体どんな生涯を歩んだのか?
本稿では、小見の方にスポットを当ててみました。
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小見の方は光継の娘で光秀のイトコ?
小見の方は永正10年(1513年)の生まれとされます。
父は明智光秀の祖父にあたる明智光継。
この系図を信じると、小見の方は光秀の叔母(伯母)ということになります。
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光秀関係の系図は複数存在する上いずれも細かな点が異なっていて、小見の方が光継の姉か妹かイマイチ定かではありません。
近年の研究では「光秀が明智氏出身ということ自体が嘘では?」という指摘もされるほどで、とにかく小見の方は光秀以上に出自のハッキリしない人物でありました。
これまでの通説を踏まえると、小見の方が生まれた美濃明智氏はすでに美濃国で一定の勢力を有しており、明智城主として可児郡明智(現在の岐阜県可児市)に拠点を構えていたようです。
言うなれば彼女は「明智家のお嬢様」だったんですね。
そして小見の方は、武家の女性として生まれた宿命である「結婚」を迎えました。
道三の妻となり帰蝶(濃姫)を産んだ
天文元年(1532年)。
19歳となった小見の方は、美濃明智氏と同様に美濃国内で活躍していた斎藤道三の妻となりました。
言うまでもなく政略結婚であると考えられ、道三の主君にして美濃国守護である土岐頼芸の斡旋があったと考えられています。
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そして天文4年(1535年)、彼女は道三との間に娘をもうけました。
後に織田信長の妻として広く世間に知られるようになる帰蝶(濃姫)です。
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帰蝶についても生涯の大半がナゾであり、天文18年(1549年)に織田信長と結婚する前後以外のことはほとんどわかっておりません。
ちなみに兄で次の美濃国主・斎藤義龍は、小見の方が母ではなく、道三の側室・深芳野となります。
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話を小見の方の生涯に戻しますと。
小見の方がこの「道三との結婚」に至るまでの背景、あるいは結婚の影響は、研究者の間でも意見が二分しております。
少し詳しく見ておきましょう。
地元可児市と大河考証担当者の見解に相違が
まず、明智家ゆかりの地とされる可児市発行の『可児市史』はどんな見方をしているのか?
郷土史家の横山住雄先生らによりますと「結婚前の明智家は光秀の祖父や父の名もわからないような一族だった」として、系図の物足りなさを「家の勢力・財力不足」と結論付けました。
ではなぜ、斎藤道三の時代に明智城主の座にまで上り詰めることができたのか?
というと、ひとえに小見の方が道三と結婚したことで後ろ盾を得たためだと解釈しています。
確かに、いま一つうだつの上がらない小規模勢力が有力者の親戚となって出世する例がないわけではありません。その可能性は排除できないでしょう。
それだけではありません。
これまでの系図類に見えるような「光秀は先祖代々明智の姓を名乗っていた」という点も疑わしいとして、「結婚の結果、可児明智の地で勢力を有したために『明智』姓を名乗り始めた」という可能性さえ指摘しているほどです。
以上の説を踏まえれば、明智家にひとときの繁栄をもたらしたのは紛れもなく小見の方の存在によるものと考えられますね。
ただし『麒麟がくる』で時代考証を担当する小和田哲男先生は、この説に触れたうえでまったく逆の結論を出しました。
「明智城主の娘だからこそ道三の後妻に迎えられた」という観点から、明智家はもともと力を持っており、影響力があったからこその婚姻であると指摘しています。
果たして正しいのはどちらなのか――。
いずれの説にも一定の妥当性があるのと同時に、どちらか一方を否定できるだけの有力な根拠がないのも事実です。何か新しい発見でもない限り、結論は将来へと持ち越されるでしょう。
ともかく、小見の方が明智氏の命運に関わる女性だったのは間違いなさそうです。
『言継卿記』の中に重大な記述あり
その後、小見の方の活躍については史料から姿が消えてしまいます。
わかっていることは……前述のように天文18年(1549年)、娘の帰蝶が信長と結婚したことです。
彼女は信長の義母となりました。
ただし、その時点では斎藤家が健在であり、交流が頻繁にあったとは思えません。
そして娘を織田家に娘を送り出してすぐの天文20年(1551年)、小見の方は39歳の若さで亡くなってしまうのです。
『美濃国諸旧記』にはそう記されております。しかし……。
近年になって貴族・山科言継(やましなときつぐ)が記した日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』に興味深い記述が発見されました。
注目すべき記述は永禄12年(1569年)の7月27日と8月1日。
まずは7月27日から見てみましょう。
7月27日の日記
「信長が、すでに故人となっていた斎藤義龍の持っていたツボを差し出すよう何度も帰蝶(濃姫)に言ってきたらしい。
しかし、帰蝶(濃姫)が『そのツボは稲葉山城が落ちたときに紛失したものだし、それでも寄越せと言うならわたし(帰蝶)やその兄弟姉妹16人で自害する。また美濃の国人衆30人余りも自害する』と信長に告げると、結局『それならそのツボは紛失したということで…』と信長が折れ、無事に解決した」
続いて8月1日分の日記へ。
8月1日分の日記
「信長と会って礼を言った。
すると彼は、これから姑(小見の方?)のところに、ツボの一件が解決したと礼に行くというので、その屋敷まで同行した」
この二つの記載は一見すると「良くも悪くも戦国らしい夫婦のおもしろエピソード」ぐらいに思われるかもしれませんが、歴史学的にも非常に価値のある一節。
姑とは言うまでもなく「妻の母」にあたります。
この件で「妻」といえば濃姫ですから、彼女の母、つまり小見の方となります。
しかし、永禄12年(1569年)の7月27日と8月1日というのは、既に小見の方が亡くなっているはずの時期です。
この矛盾はどういうことか?
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