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【稲葉山城乗っ取り事件】
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龍興「お前ムカツクからクビ!!」
半兵衛は「城内にいる弟が病気になったと聞いたので、良い医者を連れてきた」とウソをついて、わずかな手勢で城の中へ入り、龍興をダメな方向へそそのかしていたアホ共に対して無双を繰り広げます。
さすがに主君は殺さず逃がしました。
この時点でただの暴挙でないことはわかりますね。
しかし、聞く耳持たぬ相手に何を言っても無駄というのは古今東西のお約束。
半兵衛もおそらく気付いていたでしょうが、それでもいきなり出奔しなかったあたりが忠臣でした。
元々、下克上を起こすためではなく、エクストリーム諫言として城をぶん捕っただけなので、半年後には自ら龍興に詫びを入れて城を返すのです。
結局、龍興は「お前ムカツクからクビ!!」(超訳)と言い出して、この切れ者家臣を放り出してしまいました。
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斎藤家の凋落と織田家の躍進が始まった
これを機に半兵衛は、美濃から離れて隠遁生活に入りました。
その後、秀吉がいわゆる「三顧の礼」で家臣にしたといわれていますが、おそらくこれも脚色でしょうね。
なにせ彼は、稲葉山城の主になっていた間、織田信長からの「お前すげえな! 城ごとウチのモンになれよ!」(超訳)という誘いを断った、なんて逸話も伝えられております。
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つまり「秀吉のほうが信長より人望があったんだよ!」と暗に強調するため、後に創作したエピソードと受け取ることもできるわけです。
どの武将にもよくありますが、豊臣秀吉の場合、出自と出世ぶりを正当化するための逸話が特に多いですからね。
「母親が太陽を身ごもる夢を見て生まれたので幼名を日吉丸にした」とか「半兵衛は秀吉に将来性を感じた」とか「信長より秀吉のほうが性格的に好きだったから」とか、はてさて……。
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何はともあれ、この件を契機として両家はどうなったか?
斎藤家はそれまでにも増して斜陽。
優秀な家臣を得た織田家は躍進。
龍興と信長・秀吉を比較すると、人間生まれつきいろいろ持っていると判断力が育たず、逆に何もなかったり境遇に恵まれないと知恵を絞るものだという良い教訓になりますね。
半兵衛は、逸話が規格外過ぎて、凡人の参考にならないというか何というか。
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
竹中重治(竹中半兵衛)/Wikipedia